日本的なものを超えて [1]

 🍀「平和を愛する世界人として」文鮮明師・自叙伝と天聖経 🍀

 

 2022年7月8日安倍総理銃撃事件以降、日本中のメディアは民主主義の基本である対話のプロセスを経ることなく、家庭連合(旧統一教会)バッシング報道の一色になっていきました。

 家庭連合イコール「反社、カルト」といった悪のイメージの「世論」を作るため、キープレイヤーとなる知識人、学者、弁護士、有名無名関係なく、一般に影響を与える人たちを総動員して、メディアを中心に雑誌、新聞などフルに活用して、イメージを刷り込ませていきました。この方法は昔からのプロパガンダの手法と同じです。

 

 そんな世の中が騒がしい最中、偶然書棚の奥に眠っていた、「世界平和統一家庭連合」の創始者文鮮明師の自叙伝「平和を愛する世界人」を目にした私は、十数年ぶりに読み直してみようと思い立ったのです。

 350ページ近い長文で完読するのに3日ほどかかりましたが、2009年に出版された当時の印象と今ではかなり違っていて、多くのことに気づかされていきました。

 この自叙伝は韓国の人たちのために書かれ、それを日本語に翻訳したものですから、日本人には少し抵抗感があるかもしれません。しかし日本での文鮮明師に対する認識の違い、偏りや誤解が多いことに気が付き、真実の人物像、その思想を少しでもご理解いただければと、僭越ながら乏しい知識と知恵を絞って、自叙伝の内容の紹介を交えながら、拙いブログを作成しました。

 

 私の理解不足のために誤解を招くことがないように細心の注意を払いましたが、このブログの内容に関しましては、私個人の責任において制作したものであることをここに記させていただきます。

 

 私がこのブログを作るキッカケとなったのは、著書の169ページ、文師の世界巡回が始まった1965年、日本に訪れたとき、日本の信徒たちに語った言葉です。

 「皆さんは日本的ですか? そうでないとしたら日本的なものを超えましたか? 神が一番願われるものは日本的なものを超えたものです。日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです」

 このわずか数行の言葉 「日本的とは?」 何をどう超えろというのでしょうか? まったく理解できませんでした。

 

 この言葉に引っかかったまま数日経って、何気なくネットで検索していると、Amazonのお勧め著書に、山本七平氏著「空気」の研究・誰もが空気を読み「忖度」する現代を予見した『日本人論の決定版‼」(文春文庫)という表紙を飾る大きな見出しが目に飛び込んできたのです。瞬間、私の指は[すぐ購入]のスイッチに飛んでいました。さらに別の角度から日本人論を書かれたM氏の「空気が支配する国」・・・同調圧力の正体・・・など5冊購入していました。

 このタイトルを見ただけで、今までモヤモヤしていたものが一気に吹き飛んでいったのです。

 今のメディアの家庭連合(旧統一教会)バッシング報道の騒動と、この著書のタイトルが見事にリンクしていったのです。

 

 山本七平氏は1976年一神教の対比をテーマとした日本人とユダヤ人の著書で、第二回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、ご両親は熱心なクリスチャンで、ご本人も洗礼を受けられています。戦争体験もあり、フィリピンでアメリカ軍の捕虜になり、収容所生活を余儀なくされたときのことを、「日本人の捕虜たちは収容所内で集団を作り、腕力のあるものが‘力’で支配する、暴力団のような組織を作ります後で知ったことですが、アメリカの収容所は民主的な自治組織のようで、リーダーは選挙で選ばれています」と述べられています。この体験が山本七平氏の執筆活動に大きな影響を与えたと言われています。

 日本人を知る上で名著といえるものです。是非お読みいただきたい貴重な一冊です。

 

 この著名な方々のお言葉をお借りして自分なりに要約してみました。

《日本人は「村社会」、その気質から生まれる曖昧とした「空気」のような「掟」に従い、同調しないといけない無言の圧力に、そこから副産物として「忖度」という掴みどころのない言葉から「空気を読む」という独自の現象が生じる、それに同調できないものは村八分、場合によってはリンチという制裁が科せられる》といのです。

 こうした因習ともいえる日本人特有の「村社会的気質」文鮮明師は見抜いていたのです。ここで‘日本的’といわれた疑問が一つ解けたようです。

 

 家庭連合(旧統一教会)バッシング報道は、国民の感情を煽り、国家権力まで動かし、何の検証もされないまま、一晩で解散命令を下すという暴挙までに至りました。

 何の罪のない信徒たちは罪人のような扱いを受け、内定が決まっていた就職が取り消されたり、公共施設の使用を禁止されたり、学校でのいじめや差別など、枚挙に暇がないほどの嫌がらせを受けています。

 

 これこそ「村社会」の掟に従わないものに対する村八分の制裁といわずして何というのでしょう。宗教は悪 宗教はこうあるべきものだなどと、与えられた問題から最速で答えを出す偏差値教育の盲点ともいわれるような、定められた固定観念に生きる人たちにとって、それ以外の答えは異端、異常などという結論になるのでしょう。

 

 そんな家庭連合(旧統一教会)が批判に晒されているにも関わらず、自らのリスクも受け止めた上で、メディアの報道、政府の解散命令に対する不信、疑惑から、民主主義の根幹に関わる重要な問題として「おかしい!」と手を挙げてくださる弁護士、ジャーナリスト、国会議員、地方の議員、知識人などの出現は、左傾化してく日本、全体主義に移行していく今の現状に警鐘を鳴らしているともいえます。

 

 家庭連合(旧統一教会)批判でメディアに登場する知識人といわれる人たちは、すでに世の中に出回っている情報に、もっともらしく持論を繰り広げていくのに対し、それに疑問を投げかける知識人といわれる人たちは、問題の本質を掘り下げて、深く物事を考える、その対比に「思考の器」の違いをさまざまと見せつけられました。

 

 切り取りによって自由に操作できるマスメディアの報道の情報は、ほんの事実の一部でしかないのです。しかし視聴者はそれが全てのように受け取っていきます。少しでも哲学的な捉え方をし、思考力や創造力を働かせば、自然に疑問が湧いてくると思うのですが、人は自分で考えることを捨ててしまったのでしょうか? 

 

 いや、共産主義が最も恐れているものは、人間の心にある「思想・信条」だといいます。考えさせないように仕向けていくことに力を注いでいるとすれば、連日の過熱報道もうなづけます。当然、宗教は最も危険であり邪悪なものになるのでしょう。

 

 日本には世界に誇る「間」「空」「虚」といった伝統的な精神文化があります。ですから日本人の「空気を読む」という感性を否定するものではありません。しかし、それは空間芸術の美意識を高めるため、創造の技を表現するなど、‘人を生かす’ための目的に使われるものです。目に見えない「空気」はときに「風」によって左右され、使い方を間違えればその弊害は計り知れません。「空気を読む」というのは所詮その場限りのことでしかないのですが、メディアの起こす「風」は、それを追従する人たちの力を得て、暴走してしまうこともあります。人は集団になると暴力的になりやすく、ときに公開のリンチの様相を呈してしまうこともあるのです。

 

 日本には神道、仏教という昔からの宗教があるのに、何故キリスト教を持って来るのかという疑問もあると思います。私はその専門家ではありませんので、詳しいことは言えませんが、一神教と日本人」の対比を書かれた山本七平氏の著書のお言葉をお借りすれば、一神教の神は絶対者、絶対的基準となり、他はすべて相対的なものであると、真の民主主義のベースとなっているもので、判断や選択肢はそれを基準として作られています。これに対して八百万の神々観」は、太陽から月、風、家の中のもの、世の中のすべてのものに神が宿っているという、無数の神々を崇める昔からの風習なのです。何かを決めるとき「村社会」の権力者の「掟」によって決められることが多いのです。

 

 メディアは「空気」を読んで情報発信し、国民はそれが教科書となり、自分の意見として、自ら考えることをしなくなる。政治家は官僚が書いた政策を読むだけの血の通わない言葉を羅列して、国際社会では重要なことは決められず大国に依存してしまう状態で、これから二十一世紀を、次世代に繋げていくために何をベースとして国を築いていくのか、何も示すこともなく、時間とお金をただ浪費しているにしか見えない、今の現状ではないでしょうか。

 

 🌹私はこの文鮮明師の自叙伝の中に、新しい時代を切り拓いていく、何かヒントが隠されていると思えてなりません。

 

 

  ☆☆☆ 神様の実在 ☆☆☆

「神様がいる」というとき、それは言葉だけで知ることではありません。主体と対象の関係を中心とする原理から見てみるときに、神様は存在していると言わざる得ない、ということではないのです。神様は「私」が存在する前にいらっしゃったのであり、私が考える前にいらっしゃったのであり、私のすべての感覚、私の一切を主管するお方です。それを認識することが、何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではありません。認識して知るようになっているのです。私たちば、寒いければ、寒いことを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。これと同じように、神様がいらっしゃるとすれば、神様が」いらっしゃることを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題です。言い換えれば、神様の存在を体恤する立場をいかに私たちが確定するかということ、これが問題だというのです。

                 【天聖経・第一章 神様の存在と属性】より