人類の涙をぬぐう「平和の母」第十章 神世界に向かう偉大な挑戦(7)

     ☆🦋☆🦋☆ 全世界の国会議員を一つに結ぶ大遠征[下] ☆🦋☆🦋☆

 🌹2016年の末、アメリカで世界平和国会議員連合の創設大会を開くための準備に際して、上院議員会館の担当者が、私たちに由緒あるケネディ・コーカス・ルームで大会を開けるよう配慮してくれました。

「大会を開催できる部屋はいくらでもありますが、重大な大会ですから、私どもがケネディ・コーカス・ルームを準備しておきます」

 

 🌹ケネディ・コーカス・ルームは、ジョン・F・ケネディが、1960年の大統領選挙への出馬宣言をした場所です。それを記念して名付けられたこの部屋では、これまでアメリカや世界の歴史にとって重大な意味を持つ大会だけが行われてきました。担当者たちは、人類歴史に新しい里程標を打ち立てる重要な「世界平和国会議員連合」の創設大会を、意義深い場所で開催できるようにしてくれたのです。

 

 🌹2016年11月30日、冬の雨がしとしとと降る中、五十六カ国から来た国会議員と主要参加者約五百人が、会場をいっぱいに埋め尽くしました。その中の大部分は、各大陸で先駆けて開かれた行事に既に参加しており、隣国の人同士が抱き合いながら再開を喜んでいました。大国から来た人たちもそうですが、特に小国から来た人々は、世界的な行事に参加できたことに、言い表せないほどの喜びや希望を抱いていたようです。アフリカのベナンの国会議長が語った言葉が、人々の深い共感を呼びました。

 

「私は青年時代に文鮮明総裁、韓鶴子総裁の平和原理を学びました。今でもその教えを実践しています」

 

 🌹私たちが平和への新しい道を示したことに対して、多くの人々が感謝の気持ちを述べてくれました。創設大会には、長きにわたり私たち夫婦と信仰を結んできた、アメリカ議会上院議員の重鎮、オリン・ハッチ議員も駆けつけてくれました。彼は私のスピーチ後に演壇に上がると、私たちが数十年間、変わることなく平和運動を展開してきていることに対して、深い感謝の意を表してくれました。1977年からアメリカの上院を守ってきたハッチ議員は、私の平和運動を積極的に支援してくれました。上院で民主党を代表する一人であるエド・マーキー議員も、私たちが環境保護に貢献したことに感謝を述べ、これからも引き続き支持すことを約束してくれました。

 

 🌹ワシントンDCでの大会をゴールに、世界平和国会議員連合創設のための長期にわたる路程は一段落しました。一年かけて地球を一回りしながら、六大陸で開いた大会には、合わせて百九十カ国の現役国会議員、約二千五百人と共に二万人以上の人々が参加し、大成功を収めました。

 

 🌹大会と共に、自転車に乗って国土を通過するピースロードも開かれ、市民の熱い歓迎を受けました。ピースロードは韓半島の平和統一」を祈願しながら、自転車に乗って大陸を通過するプロジェクトです。同時に国際ハイウエイを通して全世界を一つの交通綱で繋ぎ、世界で起こっている紛争と葛藤を解消して、人類を一つの家族にしようという願いも、このイベントに込められています。

 

 🌹リトルエンジェルスは各大陸の行事において、韓国の美しい伝統舞踊と歌を紹介するとともに、大会開催国の国歌や民謡を歌って、参加者たちの心を強く揺さぶりました。

 🌹有史以来、これほど多くの国の国会議員が集まったのは初めてのことです。彼らは国家という垣根を超え、人種の違いを意に介さず、宗教の違いも超えたのです。一時は怨讐(おんしゅう)のような間柄だった隣国の国会議員との間でも、三、四日、向かい合って座って過ごす中で「これから我々は、平和のために何をすべきか?」という真剣な議論が始まったのです。

 

              Holy Mother Han 【世界平和統一家庭連合 韓鶴子総裁自叙伝より】

 

 

 

🌺My favorite the word of God. 私の好きなみ言(ことば)

「これから我々は、平和のために何をすべきか?」

 

 

 

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人類の涙をぬぐう「平和の母」第十章 神世界に向かう偉大な挑戦(6)

☆🦋☆🦋☆ 全世界の国会議員を一つに結ぶ大遠征[上] ☆🦋☆🦋☆

 🌹ネパールは海がない代わりに、世界で最も高い山を持つ自然豊かな国です。数多くの登山家や観光客が訪れますが、生活環境はあまり良くありません。カトマンズ空港に降りると待合室の床で、二匹の犬が穏やかに昼寝をしています。誰もその犬を追い出そうとはしません。二車線の道路を自動車やバイクが走っていると、突然一斉に停車することがあります。前方で一頭の牛がのそりのそりと横断しているからです。その牛が道を空けると、ようやく車を再び走らせることができるのです。

 

 🌹中国とインドの間に挟まれたネパールは、鎖国していたこともあり、経済的には後れを取らざる得ませんでした。しかし、家庭連合に出会ってから大きな変化が起こったのです。特に2016年の夏は、忘れることのできない年となりました。アジアの各地から、政治・経済・宗教・教育界の指導者数百人が一斉に訪ねて来たからです。歴史上初めて「世界平和国会議員連合」を創設するためでした。

 

 🌹世界平和は一人二人の努力だけでは成し遂げられません。一般市民から政府の高官に至るまで、様々な階層を越えて、多くの人が積極的に立ち上がらなければならないのです。世界のあらゆる国には大なり小なり国会があります。そこに集う議員は、国民の貴重な一票によって選ばれた人物であり民意の代弁者です。世界各国を巡回している時、巡回先でその国の国会議員が訪ねて来るたびに、彼らに国家と国民によって与えられた大切な使命を忘れ得ないようにと、何度も伝えました。そして、ただそのように伝えるだけでなく、平和を定着させるため、実質的な活動を実践することにしたのです。

 

🌹「各国の民意によって選ばれた国会議員を集め、世界平和国会議員連合を創設しなければなりません。議員たちが額を合わせて『平和のために何をすべきか』と知恵を絞り、心を合わせれば、平和はより早く自然な形で訪れます」

 🌹この言葉を出発点として、世界中の国会議員を一つに結ぶための、長い長い大遠征が始まりました。国家、人種、文化を超えて、人類の生活を脅かす頭痛の種を解決しようとしたのです。

 

 🌹それは決して簡単なことではありませんでした。どの国の国会も与党と野党に別れ、葛藤と対立を起こしています。そのため人々は「政党の違う議員が快く一堂に集まるだろうか?」と心配していました。しかし私には少しの不安もありませんでした。私の提案を受け入れない国会議員はいないということを理解していたからです。

 

 🌹世界平和国会議員連合は、2016年2月、韓国の国会議員会館で開かれた国際指導者会議で、創設決議案が採決されたのを最初の一歩として、大陸ごとに巡回しながら大会を開いてきました。大会のテーマは「私たちの時代の主な挑戦課題の解決―政府、市民社会、宗教団体の役割」に決めました。

 

 🌹日差しの強い真夏のネパールに人々が続々と集まり、ついにアジア・オセアニア圏の大会が始まりました。二十九カ国から百六十六人の国会議員を含め、合わせて五百人以上の人々が、遠路をものともせず参加したのです。ネパール国民はもちろん、大統領までが直接足を運んで、深く感謝の意を表してくれました。当初の大方の心配とは打って変わり、最初の大会から大盛況となったのです。「韓総裁には慧眼(けいがん)がある」と称賛を受ける結果となりました。その後の大会も引き続き会場は満員となりました。

 

 🌹ネパール大会に続いて、ブルキナファソの国家議事堂で行われた西・中央アフリカ圏の創設式には、二十四カ国から六百人以上が集まり、共に熱い議論を交わしました。秋にイギリスのロンドンで開かれたヨーロッパ・ユーラシア・中東圏大会には、四十カ国以上から約三百人が参加しました。私は創設者として、彼らに次のようなメッセージを伝えることを忘れませんでした。

 

「永久なる平和世界を建設するためには、各国の政治に責任を持つ指導者が正しい人格を備え、良心の声と道徳の価値に従わなければなりません。世界中の国会議員が一つになって平和のために協力し合えば、世の中は変わるでしょう」

 

 🌹十月にはコスタリカで中米・カリブ海大会パラグアイで南米圏大会が行われ、十一月の始めには東アフリカのザンビアで、東アフリカ圏大会が行われました。ザンビアは暑い日が続いていましたが、その暑さをものとはせずに集まった参加者たちは、私の平和思想に共感し、苦しみの歴史を清算して、希望の平和時代を築いていくことを決意しました。

 

 🌹こうして残る国は日本アメリだけになりました。果たして日本の現職国会議員は何人参加するだろうかと、人々はハラハラしていました。しかしそのような心配をよそに、閣僚を含む六十三人の国会議員と共に、有識者二百人以上が集まり、大会は大盛況となったのです。政治理念と文化の違いを超えて、平和世界を構築していこうという趣旨に、躊躇(ためら)うことなく、平和を渇望する志とその実現への道を提示すると、心を一つにして歓迎してくれました。

 

 🌹最後に残ったのは、これまでの成果を集約し、世界的な舞台において歴史になかった世界平和国会議員連合を誕生させる大会でした。その最後の勝利大会の場所は、アメリカのワシントンDCに決定しました。

 

              Holy Mother Han 【世界平和統一家庭連合 韓鶴子総裁自叙伝より

 

 

 

🌺My favorite the word of God. 私の好きなみ言(ことば)

永久なる平和世界を建設するためには、各国の政治に責任を持つ指導者が正しい人格を備え、良心の声と道徳の価値に従わなければなりません。世界中の国会議員が一つになって平和のために協力し合えば、世の中は変わるでしょう」

 

 

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人類の涙をぬぐう「平和の母」第十章 神世界に向かう偉大な挑戦(5)

☆🦋☆🦋☆ 自然はそのままのときが一番美しい ☆🦋☆🦋☆

 🌹一艘(そう)のボートがけたたましいエンジン音を鳴らしながら、青々とした川の流れをかき分けて進んでいます。エンジンこそ付いていますがひどく古びたボートです。一人が急に立ち上がるとボートがぐらつき、そこら中から悲鳴が上がります。ひょっとして沈みはしないだろうかと瞬間的に恐怖に襲われるのです。揺れが収まり、もう大丈夫だろうと安堵(あんど)したのも束(つか)の間、また誰かが突然声を上げます。

 

「うわっ、これは何だろう」

 🌹大きな魚が一匹、水の上を飛び跳ね、甲板にドスンと落ちたのです。鋭い歯を何十本も覗(のぞ)かせるその魚は、熱い日差しの下で激しく跳ねています。傍にいた二、三人が怯(おび)えて後ずさると、同乗していた先住民が長い棒でその魚を拾い上げ、川の中に戻してやります。

 

「驚きました。何という魚ですか?」

「ドラドといいます」

 🌹ブラジルのジャルジンの川には奇怪な魚が数え切れないほどたくさんいます。南米はいつも春か夏の気候であり、常に花が咲き、食べ物も豊富です。そこは人間が暮らす上で最も良い土地であると同時に、あらゆる動物と植物が共生している所なのです。

 

 🌹緑豊かなその地は、動物や植物と共に生きて行く地上の楽園です。その楽園の中でも、最初にモデルとなり得る地がジャルジンです。

 🌹原生林と湿地から成るこの巨大な奥地は、生命の楽園と呼ばれる地域で、多くの生き物が生息し、最も自然が躍動している土地です。鳥や昆虫、魚がどれほど生息しているか、自然がどれ程生き生きとしているか、表現する言葉が見つかりません。ジャルジンをはじめ、その周辺地域には湖のように澄んだ川が流れ、二十以上の滝があります。

 

 🌹私たちがジャルジンを訪れたのは、1994年の12月でしたが、ブラジルは真夏の気候でした。ジャルジンの地に着くと、そこはどこまで行っても蟻の巣ばかり見える平原でした。その時は禁漁期間でしたが、私たちは警察の保護を受けながら川で釣りの修練を行いました。日差しが強くなってくると、警官は川に入って仰向けに体を浮かせながら、私たちが魚を釣る様子を不思議そうに見守っていました。

 

 🌹昔からジャルジンには「主が来る所」という予言が伝えられていました。パラグアイ川アマゾン川は、奇怪な木々や蔓、巨大な樹木が絡み合っており、体をかがめてようやく抜け出せるような危険な場所ですが、私たちは小さな船を頼りに夜明けに出発し、猛暑と蚊の大群と闘っては、夜中に帰って来るという極めて過酷なスケジュールをこなしました。一番大変だったのは体を洗うことでした。狭い船の中で適当に衝立(ついたて)を立て、川の中で体を洗ったのです。

 

 🌹私はそのような原始の自然がとても気に入りました。私たちはそこにジャルジン教育本部を建て「ニューホープ農場」を造って、神の国を建設する実践の場としました。そこで最初に指導者修練会を開いた時は、修練所としてトイレや食堂すらない古びた簡易倉庫を使いました。この上なく不便な所でしたが、指導者たちをその場に集め、生き生きとした体験ができる教育を行ったのです。汚染されていない本然の自然の中で釣りと訓読をしながら、何の分け隔てもなく生活を分かち合う心情修練でした。

 

 🌹生態系がしっかりと保全されているジャルジンに農場を造った理由は、神様が太初に創造されたエデンの園を再現できるからです。そこに世界中の人々が集まり、自然と共に愛を感得しながら暮らすことのできる共同体をつくったのです。

 

 🌹もう一つの地上の楽園であるパンタナールは、神様が創造されたすべての生き物が、パラグアイ川を中心に、本然の姿のままで命をつないできた所です。魚をはじめ、動物、食物がすべて太初の姿のままなので、エデンの園とは、まさにここのことではないだろうかと深く感銘を受けるほどです。

 

 🌹そこではスルビ、パクー、カピバラ、レア、ワニ、ペッカリー(ヘソイノシ)が気ままに、たくましく棲息しています。ピラニアは群れをなして人にも危害を加えます。パンタナールは世界で最も大きな湿地帯であり、その一部がユネスコの自然遺産として保全されているため、理想村を築くために選ぶことのできる唯一の土地でした。四方が危険に囲まれている環境ですが、将来の食糧問題を解決するため必要な場所でした。

 

 🌹中でも最も大変だったのはチャコという地域です。そこはボリビアパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルにまたがるグランチャコの一部で、まさに奥地の中の奥地です。1999年、私たちは日本の元老信徒に、チャコのプエルト・レダを開拓するよう頼みました。レダはチャコの中でも最も生活するのが不便な所でしたが、信徒たちは袖をまくり上げ、汗を流して働きました。数年もせずにそこは人と自然が美しく共生する所に生まれ変わり、誰もが住みたいと思う理想村になりつつあります。

 

 🌹養殖場を造って住民の生活を改善させ、飢えに苦しむ貧しい人々の手助けをしました。牧場で牛や豚など育て、百六十カ国に分け与えて育てる計画も立てました。またパラグアイ川近くの何もない土地に、苦労を重ねた上に木を植えることもしました。

 

 🌹私は南米に行って何度も涙を流しました。広大な地で苦労しながら生きる人々の苦しみに涙し、学習意欲にあふれながらも、文字すら学ぶことのできない子供たちを見ながら、心が張り裂けそうになりました。一日一日を生きるので精いっぱいの人々に、神様のみ言葉を伝えるのは本当に難しいと訴える宣教師たちの言葉に耳を傾けながら、私たちは彼らの肩を静かに抱き、ただただ、一緒に祈りを捧げました。

 

「後日またここを訪れ、幸せの地にいたします。神様、ここをお忘れにならないでください」

 🌹基本的な社会的施設が不足しているチャコには、子供たちを教育する学校が必要であり、病院も必要でした。また彼らは何よりも、飢えから脱するための生活基盤を必要としていました。そのため、私たちは世界中の信徒から寄付金を集め、チャコに注ぎ込んだのです。一朝一夕ですべてを変えることはできませんが、子供たちに希望を与え、青年たちに「我々も豊かに暮らせる」という展望を持たせることができただけでも、信徒たちには慰めとなりました。

 

 🌹崩れ行く生態系を守るためにも、私たちは汗を流しました。開発という美名の元、アマゾンの密林を無差別に伐採してしまうと、地球全体に取り返しのつかないほどの悪影響を及ぼします。魚の乱獲、無意味な動物の殺生は、どこであっても決してそのまま見過ごすことができない深刻な問題でした。

 

 🌹全世界で八億人が飢餓にあえいでいた時代には、南米もその例外ではありませんでした。南米のいくつかの国では、牛肉やとうもろこし、大豆が豊富にあるにも関わらず、栄養失調で苦しむ子供たちがたくさんいました。私たちは彼らを救うために農場を造り、牛や豚などを育てました。また自然保護のため、資源をどのように活用するか真剣に悩み研究しました。

 

 🌹オオカバマダラは、羽根を広げても十センチほどにしかならない蝶ですが、カナダからメキシコまで、五千キロの距離を飛んで行き冬を越します。誰かが教えたわけではありません。これこそが真実であり、自然の法則なのです。

 

 🌹自然と私たち人間は不可分の関係にあります。自然についてしっかり学んでこそ、自然に表れている神様の創造の神秘を悟ることができます。神様が私たちのために、万物をお創りになった時の限りない喜びと愛を感じ取ることができるのです。そうすれば、私たちも愛と感謝の気持ちを持って一日一日を生きることができます。その真理を学べる地が南米です。その天恵の大地のおいて「神様のもと、人類は一家族」という立場で家族愛を実践することで、私たちは本郷を訪ねていくことができるのです。

 

              Holy Mother Han 【世界平和統一家庭連合 韓鶴子総裁自叙伝より

 

 

 

🌺My favorite the word of God. 私の好きなみ言(ことば)

 私は南米に行って何度も涙を流しました。広大な地で苦労しながら生きる人々の苦しみに涙し、学習意欲にあふれながらも、文字すら学ぶことのできない子供たちを見ながら、心が張り裂けそうになりました。一日一日を生きるので精いっぱいの人々に、神様のみ言葉を伝えるのは本当に難しいと訴える宣教師たちの言葉に耳を傾けながら、私たちは彼らの肩を静かに抱き、ただただ、一緒に祈りを捧げました。

 

 

 

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人類の涙をぬぐう「平和の母」第十章 神世界に向かう偉大な挑戦(4)

    ☆🦋☆🦋☆ 中南米に蒔いた愛と奉仕の種 ☆🦋☆🦋☆

🌹「悲しみで言えば、中南米もアフリカに勝るとも劣らないでしょう」

 中南米の人と話をすると必ず出てくる哀訴です。その訴えはさらに続きます。

「資源の多いことが、むしろ私たちの生活を疲弊させることになったのです」

 🌹中南米はアフリカに負けず劣らず、無慈悲に搾取された歴史を持つ大陸です。五百年近くヨーロッパの強大国から植民地支配を受け、多くの資源を収奪されたため、今だ貧しい国が少なくありません。

 

 🌹特に先住民には、収奪の傷跡以上に、抹殺された同族の人々の凄惨な記憶が残っています。ヨーロッパの人々は、ダイヤモンドなどの鉱石を手に入れるだけの目的で、植民地を少しでも拡大するために、伝染病の流行を放置して、先住民を根絶やしにしようとまでしたのです。

 🌹二度の世界大戦を経た後も共産勢力が勢いを増したため、民主主義が定着するまでに多くの困難を経ました。その過程で血なまぐさい内戦も起き、数多くの人々が命を落としました。そのため、私は中南米の空港に降りるとまず、その傷ついた霊魂を慰める解怨の祈りを捧げています。

 

 🌹凄絶な受難を経たにもかかわらず、中南米の人々は純朴で、少しでも良い生活をするために汗を流しています。宗教に深く帰依する心もあります。資源は豊富で、天候は一年中暖かく人が暮らすのに適した所です。また原始の自然がそのまま残されており、まさに天恵の地と言えます。中南米に足を踏み入れた瞬間、目の前に広がる大地と太古の自然、親切で善良な人々の姿に誰もが好感を持つことでしょう。

 

 🌹その中南米に、私たち夫婦は誰よりも深く精誠を尽くしました。家庭連合が中南米に最初の一歩を刻んだのは、1965年のことでした。その後、宣教師たちが中南米の各地に渡って教会を建て始め、信徒が徐々に増えていきました。中南米の大半の国はカトリックが生活宗教として根づいていますが、私たちは精誠の限りを尽くして「原理」のみ言(ことば)を伝えました。

 

 🌹私たちは多くの大会と行事を行い、数多くの宣教師や世界各国の信徒が中南米を訪れて奉仕活動を行いました。小学校から大学まで学校を建て、原生林を開墾し、農場を造って貧しい先住民の生活を向上させました。また道を切り開いて部族同士が交流しやすいようにし、病院を建てて病人の治療をするとともに、数十台の救急車も寄贈しました。

 

 🌹当然のごとく、教会を建てる作業はいつも後回しにしましたが、それでも信徒たちのたゆみなき献身に心を開く人が増え、教会は徐々に定着していきました。

 🌹中南米に注いだ精誠の中で最も意義深かったのは「南北米統一連合(CAUSA)」を設立したことです。1980年~90年代、中南米社会主義が勢力を伸ばし、大陸全体が共産化される危機にさらされていました。

 

 🌹もしメキシコが共産国家となれば、国境を接しているアメリカは、そのメキシコに対抗するため、世界各地に派遣している米軍をすべて自国に呼び戻すでしょう。そうすれば韓国や日本は言うまでもなく、アフリカやヨーロッパにまで、共産主義の魔の手が伸びることになります。全世界が共産化されるのも時間の問題となります。

 

 🌹文総裁と私は、この事態を何としても止めなければなりませんでした。そこで中南米に左翼政権が次々と発足し、露骨に共産化政策を進めていく状況の中で、CAUSAをつくり、指導者と青年たちに「統一思想」を教えたのです。そのことによって、数多くの青年が共産主義に染まるのを防ぎました。またパラグアイウルグアイ、ブラジル、アルゼンチンの四ヵ国を経済的に結びつけ、中南米が一家族になるように導きました。

 

 🌹これに留まらず、十七ヵ国を巡回しながら「真の家庭と私」というタイトルで講演も行いました。その際、八カ国で大統領に会いましたが、彼らは一様に、私たち夫婦が共産主義の浸食を阻止したことに、深い感謝の言葉を述べてくれたのです。

 

              Holy Mother Han 【世界平和統一家庭連合 韓鶴子総裁自叙伝より

 

 

 

🌺My favorite the word of God. 私の好きなみ言(ことば)

 教会を建てる作業はいつも後回しにしましたが、それでも信徒たちのたゆみなき献身に心を開く人が増え、教会は徐々に定着していきました。

 中南米に注いだ精誠の中で最も意義深かったのは「南北米統一連合(CAUSA)」を設立したことです。1980年~90年代、中南米社会主義が勢力を伸ばし、大陸全体が共産化される危機にさらされていました。

 

 

 

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人類の涙をぬぐう「平和の母」第十章 神世界に向かう偉大な挑戦(3)

    ☆🦋☆🦋☆ 真っ青な玄界灘の架け橋となって ☆🦋☆🦋☆

🌹「ここまで来るのに、大変だったでしょう」

「来ること自体はそうでもありませんでしたが、飛行機のチケットを手に入れるのに苦労しました」

 

 🌹韓国で行事が開かれると、日本から多くの信徒が大挙して押し寄せます。私は彼らのことが心配でいつもその状況を尋ねます。少ない時で三千人、多い時は六千人が、一日か二日の間に、信仰の本教の地である孝情(ヒョヂョン)天苑京畿道加平郡キョンギドカピョングン所在)に集まるのです。仁川(インチョン)空港、金浦(キンポ)空港から来る人もいれば、中には釜山プサンから入って、バスを乗り継いで孝情天苑まで来る信徒もいます。

 

 🌹日本の信徒にとって、信仰の祖国である韓国を訪問し、家庭連合の出発地である釜山のポムネッコル聖地をはじめ、チョンバドン教会など、各地に散らばっている聖地を巡礼して祈りを捧げることは、生涯にわたる栄光であり願いなのです。数千人の信徒が信仰を抱いて韓国を訪れる様子は、あたかも巨大な波が迫ってくるかのようです。それはアジアの未来を変える光景でもあるのです。

 

 🌹天の摂理において、アジアが未来の大陸として脚光を浴びている理由は、家庭連合の勢いが最も盛んだからです。最初に家庭連合統一教会を受け入れたのは日本です。1958年7月、崔奉春(チェボンチュン・日本名、西川勝)宣教師が、釜山から密航船に乗って日本に渡り、宣教が始まりました。宣教の路程は苦難の連続でしたが、凄絶な闘いを通して日本の地を開拓し、ようやく1959年10月2日金曜日の午後七時十五分、東京の古い建物の二階に四人が集まって、日本の家庭連合史における最初の礼拝を捧げたのです。その後、六十年以上の歳月をかけ、家庭連合は日本全国で直実に成長を遂げてきました。

 

 🌹しかしその路程は、他に類を見ないほど険しいものでした。キリスト教会からは異端だと絶えず非難され、勝共運動をしているという理由で、共産主義者からは激しい迫害を受けました。殉教する人も出るなど、苦しみは留まることを知りませんでした。

 

 🌹更に日本政府は、ダンベリー刑務所での収監期間ゆえに、夫の文総裁に入国ビザを出すこともしなくなったのです。また有名人が次第に祝福結婚式に参加するようになると、反対している人々は教会が大きくなっていくことに脅威を感じ、メディア・マスコミを通して猛烈に、そして執拗に批判して来ました。家庭連合に通う息子、娘を親が拉致監禁し、強制棄教させるなど大きな社会問題にもなりました。

 

 🌹それにもかかわらず、日本の家庭連合は成長を続け、日本社会の大きな灯火となったのです。これまでに数万人の日本信徒が世界各地に向かい、宣教と奉仕を通して「原理」のみ言(ことば)を伝えるために精誠の限りを尽くしてきました。

 

 🌹一方、日本には韓民族の多くの同胞も住んでいます。しかし1990年代に入るまで、在日大韓民国民団(民団)在日朝鮮人総聯合会(朝鮮総連は、同じ民族でありながらも思想的背景を異にするため、互いに排斥し合っていました。同じ民族がまるで水と油のように交わらずにいるというのは大きな不幸でした。

 

 🌹私たちは勝共活動をしながらも、その一方で、朝鮮総連と忍耐強く関係を築いてきました。朝鮮総連の同胞の韓国訪問を推進すると、彼らは初め疑いの眼差しを向けてきましたが、真摯に向き合って誘っていく中で、次第に気持ちに変化が起こり、韓国訪問団に参加するようになったのです。一度韓国に足を運んだ経験のある朝鮮総連の同胞は、共産主義を捨てました。

 

 🌹私は1960年代から、時間ができるたびに日本を訪ね、信徒に会って話をし、宣教師たちを励ましてきました。東京、名古屋、北海道など、様々な都市で百数十回も大会を開き、神様のみ言(ことば)を伝えました。

 

 🌹中でも長野は、冬季オリンピックが開かれたこともある中心都市です。この地域の家庭連合は当初、信徒の数が少なく、教会の建物も小さかったのですが、私の励ましに勇づけられ成長を重ねてきました。美しく建てられた教会の隣には花郎ファランド)という名前が付いた小さな修練所もあります。新羅(シルラ)時代の花郎徒の精神を高く掲げ、自分たちでその名前を付けたということです。

 

 🌹私はこの教会を訪れて信徒たちを励まし、ここから神様のみ旨を結実させなければならないと伝えました。その願いを持って、教会の裏手にリンゴの木を一本植えたのです。それから何年かして再び訪れて見ると、リンゴの木はすくすくと育ち、立派な実を実らせていました。そのリンゴの木のように、日本に蒔かれたみ言(ことば)は芽を出して大きく成長し多くの実を結んでいます。

 

 🌹また日本が天災地変や困難に遭うたびに心を傾けてきました。近年では、数多くの命を奪った東日本大震災をはじめ、熊本地震岡山県の水害西日本豪雨など、災害が起こるたびに慰労しました。

 

 🌹2018年の夏、日本のさいたまスーパーアリーナで、宣教六十周年記念「2018神(しん)日本家庭連合希望前進決意大会」が開かれました。私は日本は過去の過ちを認め、アジア、世界平和の実現のために韓国と一つになり、手を取り合って進むことの重要性を話しました。そしてその場で、日本と韓国が一丸となって日韓トンネルを開通させ、世界中を結ぶ国際ハイウェイを建設することを改めて提唱したのです。

 

 🌹私は日本を「神日本」として祝福しました。それ以降、新しく生まれ変わった日本は、社会と文化が根本的に変化してきています。神様の懐に抱かれて何万人もの人が、新しい人生を出発しており、毎年数万、数十万人の信徒が玄界灘を渡って、信仰の祖国である韓国を訪れています。その足取りが、一時は怨讐関係にあった韓国と日本の和合に向けた大きな架け橋となっているのです。

 

 🌹天の摂理のために、真の父母は日本を母の国として祝福しましたが、母親は子供のためならば、すべてを惜しまずに捧げます。子供の世話をするために、母親が夜を明かすこともあるように、日本は全世界のために、自ら進んで犠牲の道を行かなければならないというのです。平和を生み育てる母の国として、世界のために献身しなければならないのです。

 

              Holy Mother Han 【世界平和統一家庭連合 韓鶴子総裁自叙伝より

 

 

 

※🌺My favorite the word of God. 私の好きなみ言(ことば)

 私は日本を「神日本」として祝福しました。それ以降、新しく生まれ変わった日本は、社会と文化が根本的に変化してきています。神様の懐に抱かれて何万人もの人が、新しい人生を出発しており、毎年数万、数十万人の信徒が玄界灘を渡って、信仰の祖国である韓国を訪れています。その足取りが、一時は怨讐関係にあった韓国と日本の和合に向けた大きな架け橋となっているのです。

 

 

 

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人類の涙をぬぐう「平和の母」第十章 神世界に向かう偉大な挑戦(2)

    ☆🦋☆🦋☆ 黒真珠の涙、神様の懐に抱かれる ☆🦋☆🦋☆

 🌹アフリカに行ってみると、赤色や黄土色の土がたくさん目に映ります。土が露(あら)わになった地面が広がっており、一日中風が吹いて砂が積もることで、町は赤色や黄土色に覆われます。また「アフリカ」という言葉には「マザーランド」という意味がありますが、その言葉の持つイメージとは裏腹に、そこで暮らしている人々の日常は、常に困難にさらされています。

 

 🌹ヨーロッパの人々は搾取(さくしゅ)するばかりで、アフリカにはほとんど何も与えませんでした。神様を信仰していながら、彼らを自分たちと同じ人間として扱わず、奴隷として売買することだけでした。アフリカの人々を慰めてくれる人はおらず、生きて行く上で必要な助けを施してくれた人は、ほんの一握りの人に過ぎませんでした。ましてや、神様の救いのみ言(ことば)を聞かせてくれる人など、皆無に等しかったのです。

 

 🌹私が初めてアフリカの地を踏んだのは、1970年頃のことです。その時できた心のしこりが、長い間消えませんでした。宣教師たちを続けてアフリカに送りながら、教会を建てるのは後回しにして、小さいながらも学校を建て、診療所を造り、工場を建設したのも、アフリカの人々の暮らしをよりよくするためでした。ただし、それらは今の空腹を免れさせても、彼らの心の中にある疑問を解くことはできませんでした。

 

 🌹アフリカの人々は、家庭連合の宣教師や牧会者をつかまえては、繰り返し尋ねました。

「なぜ私たちは、このように苦痛の中で、生きなければならないのですか?」

「真の父母様は、いつ私たちに会いに来られますか?」

「真の父母様は、本当に私たちを愛していらっしゃるのですか? アフリカに対する真の父母様のお考えは、どのようなものですか?」

 

 🌹彼らの切実な哀願は海を越え私の耳にも届きました。そのたびにアフリカに行きましたが、私を待つ人はあまりにも多く、国ごと部族ごとに置かれた状況が違うため、同じ話をするわけにもいきませんでした。ある国では英語を使い、ある国ではフランス語を使います。またある国にはカトリックの信者が多く、ある国にはムスリムが多いため、顔の色は同じでも、お互いによそよそしくしているのです。部族間の紛争で十数年間、血を流す争いを繰り広げている国もありました。

 

 🌹私はどうすれば彼らの傷を癒し、心を一つに束ねられるか祈り求めました。そうする中で、アフリカのすべての政治指導者や部族長が、一堂に会するようにしなければならないと思ったのです。

 

 🌹2018年1月18日のことを、私は忘れることはできません。セネガルダカールにあるアブドゥ・ディウフ国際会議場において「神(しん)アフリカ―共生、共栄、共義と普遍的価値」というテーマで「アフリカサミット2018」を開催したのです。セネガルのマッキー・サル大統領はじめ、アフリカ中から元大統領や首相、現職の大臣や国会議員が私からの招請に応じ一堂に会しました。アフリカ大陸の最北端から最南端に至るまで、アフリカ諸国を中心に、六十カ国以上から約千二百人が参加したのです。アフリカでこれほど多くの人々が集まったのは、大陸史上初めてことでした。

 

 🌹韓国では真冬の寒さが猛威を振るい、国中の人々が凍える季節でしたが、アフリカは熱い日差しのもと、一日中蒸し暑い風が吹いていました。人々は熱望していた真の母の来訪を喜び、私の手を握って涙を流しました。私の講演に続いて、アフリカで活躍しているセマウル運動と国際ハイウェイ、そして鮮鶴(ソナク)平和賞の紹介がありました。また私の後援により「世界平和国会議員連合(IAPP)」「世界平和宗教人連合(IAPD)」「世界平和族長連合(IATP)」も結成しました。

 

 🌹その日の晩、韓国の誇りである、トルエンジェルスによる祝賀会公演が開かれました。長鼓(チャンゴ)の踊りや太鼓の舞、扇の舞「お嫁に行く日」「アリラン」など、韓国の伝統舞踊や歌を披露するたびに、聴衆からは感嘆の声が漏れました。セネガルの国歌に続き、同国の国民的アーティストであるイスマエル・ローの名曲「ディビ・ディビ・レック」を清らかな歌声で歌う時には、会場を埋める聴衆は涙を流していました。声を上げて泣く人も少なくありませんでした。歌一つで、人々の心が一つになった瞬間でした。それらは、アフリカに新しい希望と喜びがもたらされたことに対する、深い感謝の意の表れだったのです。

 

 🌹翌日、ゴレ島に発つ船に乗り込みました。悲しみと苦しみの大地だったアフリカを解放、解怨するためでした。ゴレ島の奴隷収容所は二階建てになっており、主人である白人は二階に住んでいました。一方、一階にはアフリカの至る所から捕らえられてきた黒人奴隷たちが、船で運ばれるまでの間収容させられていました。そこは現在、観光客のために補修がされていますが、腰を曲げなければ入ることができず、ほとんど光りも入ってこないため、洞窟のように陰湿で不気味な空間です。

 

 🌹ゴレ島を訪れる各国首脳や指導者のほとんどは、主に二階を見学して帰るのが慣例になっています。しかし私は、一階の「帰らざる扉」に手を当て、奴隷となった人たちの解怨のために切実な祈りを捧げました。共に参加していたゴレ島の区長をはじめ、多くの人々が共に痛哭(つうこく)しました。

 

 🌹既にこの世を去った霊魂を解怨するのは、生きている人の心情を慰めることより遥かに困難です。それは人類を救う使命を持った、独り娘の切実な求めがあってこそ、できることなのです。沈黙する収容所の石壁と向かい合い、これまで誰も断ち切ることのできなかったアフリカの悲惨な抑圧の鎖を、永遠に断ち切りました。

 

 🌹収容所の向かい側にある小さな広場には、聖母マリアの像があります。その傍の黄色い壁に、手のひらほどのネームプレートがいくつか掛かっていました。島を訪れた世界の有名人たちの訪問を記念したプレートでした。セネガル大統領と国民の申し出によって、私の名前が刻まれたプレートモ付けられることになったのですが、その近くには、2013年にここを訪れた、アメリカのオバマ元大統領のプレートもありました。

 

 🌹セネガルの人々は声を揃えて私に言いました。

「悲しみ大地、アフリカに温かな恵みを下さり、五百年間、背負ってきた苦痛を解怨してくださったことに深く感謝申し上げます」

「この小さなネームプレート一つで、恩恵のすべてに報いることはできませんが、私たちのための貴い足跡を永遠に記憶させてください」

 

 🌹本土に戻る船を待ちながら、ふと気になって島の住民に尋ねました。

「船は一日に何回来ますか?」

「朝に一度、午後に一度来ます」

「夜に体調を崩す人がいたら、どうするのですか?」

「夜通し我慢して、朝になってから本土に向かいます」

「病状が急変して、命が危ない状況になったら……?」

「それが大きな心配事です。ここには病院もなく、医者もいませんから……」

 

 🌹私は船を買ってあげることを約束し、救急用の船舶をゴレ島に寄付しました。過去、数百年にわたって、数えきれないほど多くの命が犠牲になったのに、ただ船がないという理由だけで、再び不幸な目に遭わせることはできませんでした。

 

 🌹アフリカはまだ暗闇に沈んでいます。自然は美しく豊かですが、人々は不毛な土地に住んでいます。それでも、そこで暮らす人々は優しく穏やかで真面目な人々です。アフリカの人の瞳を見るたびに、美しい黒真珠を思い浮かべます。太陽の光を浴びてキラキラと輝く丸くて小さな黒真珠。アフリカの人々は貧しい生活をしていますが、その瞳は黒真珠のように輝いているのです。彼らを見ながら創造主、天の父母様の摂理を実感するのです。

 

              Holy Mother Han 【世界平和統一家庭連合 韓鶴子総裁自叙伝より

 

 

 

🌺My favorite the word of God. 私の好きなみ言(ことば)

 既にこの世を去った霊魂を解怨するのは、生きている人の心情を慰めることより遥かに困難です。それは人類を救う使命を持った、独り娘の切実な求めがあってこそ、できることなのです。沈黙する収容所の石壁と向かい合い、これまで誰も断ち切ることのできなかったアフリカの悲惨な抑圧の鎖を、永遠に断ち切りました。 

 

 

 

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人類の涙をぬぐう「平和の母」第十章 神世界に向かう偉大な挑戦(1)

    ☆🦋☆🦋☆ ひどく悲しくも美しい地 ☆🦋☆🦋☆

🌹「ゴレ島というので、ゴレ(韓国語で「クジラ」の意)がたくさん獲れる島かと思ったら違うのですね」

 韓国人は「ゴレ島」と聞くとクジラが獲れる島ではないか、捕鯨船がたくさん行き来する島ではないかと考えます。ゴレ島はセネガルの首都、ダカールの沖に浮かぶ島です。元来、一万キロ以上離れた韓国とは特別縁のない島でしたが、今では強い絆で結ばれるよになりました。

 

 🌹翡翠(ひすい)色の海をかき分けて、旅客船がゴレ島に向かっています。私の回りに座った外国からの観光客は、素晴らしい景色に感嘆しながら、写真を撮るのに忙しくしていました。それとは対照的に、私の胸は哀切な痛みで膨らんでいました。ゴレ島は美しい島でありながら、深い哀しみをたたえた島でもあります。そこに抑留されていた人々の流した痛恨の涙は、おそらく世界のすべての海を覆っても余りあるでしょう。

 

 🌹アフリカの西北部にあるセネガルは、大西洋に向かって飛び出ている地形のゆえに、アフリカ大陸では南北大陸に最も近い所にあります。また北の方に少し航海すると、ヨーロッパに至ります。今でこそ、それは様々な面で良い条件となっていますが、まさにその理由から過去五百年間、あらゆる苦しみと迫害を味わってきた国です。

 

 🌹キリスト教宣教師の名のもとに、ヨーロッパからアフリカに渡って来た宣教師の中には、本質を見失い自国の利益だけ考える人も多くいました。彼らはアフリカを植民地にしながら、教育を施すこともせず、天が与えた天然資源を奪い取ることだけに専念していたのです。

 

 🌹そのうえ、肌の色が違うという理由でアフリカの人々を家畜のように扱い、奴隷にしました。そのような行為をキリスト教宣教の名のもとに行ったという事実は、真の母として非常に心痛いことです。ですから私は、かなり以前からゴレ島を訪ね、そこを通過していったアフリカの若者たちの怨恨を、解かなければならないと考えていました。

 

 🌹1500年代当たりから、ヨーロッパの人々は群れを成してアフリカに来て、至る所を隙間なく、引っかき回すように奴隷狩りを行いました。男性でも女性でも、子供でも無差別に捕まえてはゴレ島などの拠点に集め、アメリカ大陸やヨーロッパ大陸に送り出したのです。

 🌹奴隷にされた人々は、足に太い鎖をはめられて身動きが取れない状態で、太らせるために豆を無理やり食べさせられました。病気に罹(かか)ればすぐに海に投げ入れられ、サメの餌にされました。

 

 🌹平和だったゴレ島は瞬く間に奴隷収容所となり、悲鳴と涙、苦しみと死の恐怖が溢れる地獄の島になりました。特に奴隷狩りが猛威を振るった約三百年もの間に、ゴレ島を経由して連れて行かれたアフリカの人々は、二千万人を超えるとも言われています。その中で、どれほど多くの人が海で命を失ったのか、誰にも分かりません。

 

 🌹細長い形をしたゴレ島は、今や世界中の人々が訪れる観光地となりました。過去の痛憤と苦しみは、一見消え去ってしまったかのようです。観光客は白人も黒人も、遺跡を見物するだけで終わってしまいます。東に行っても西に行っても、二十分も歩けば海に行き当たる小さな島です。小ぢんまりとした集落に足を踏み入れると、訪れた人は感嘆の声を上げます。

「秩序的に並べられた敷石は、まるでヨーロッパの路地を歩いているようです」

 🌹強い光りと影に反映された古典的な佇(たたず)まいの家並みは、平穏な静けさに包まれていました。

 

 🌹ヨーロッパの人々が暮らした家は美しく趣がありますが、その裏を十歩ほど奥に行くと、黒人を閉じ込めていた奴隷収容所があります。窓もほとんどなく、暗くて狭い汚れた石造りの収容所。そこに数百人ずつが獣のようにつながれた後、見知らぬ土地に連れて行かれたのです。海に向かって開けた石の門は、そこを通って船に乗ると、二度と戻ってこられないことから「帰らざる扉」と呼ばれていました。

 

 🌹その門の前に立っていると、アフリカの人々の悲鳴と痛哭(つうこく)が聞こえてくるようです。観光客は好奇心から収容所に入り、あちらこちらを覗き込みます。時折ため息をついたり、顔を大げさにしかめたりする人もいます。朱色に塗られた門の前で、祈りを捧げるは白人もいないわけではありませんが、その祈りで、アフリカの人々が数百年間経験してきた悲惨な思いや、鬱憤をすべて解放してあげることはできないでしょう。

 

 🌹誰かがその悲惨な思いや鬱憤を受け止め、かき抱いて解放してあげなければなりません。皮膚の色が違うという理由だけで、人が人を搾取し、自由を奪うという不幸な歴史の連鎖を、断ち切らなければなりませんでしたですから、私は一万キロ以上を飛び、いまだ悲哀に満ちているアフリカに足を踏み入れたのです。

 

             Holy Mother Han 【世界平和統一家庭連合 韓鶴子総裁自叙伝より

 

 

 

🌺My favorite the word of God. 私の好きなみ言(ことば)

 誰かがその悲惨な思いや鬱憤を受け止め、かき抱いて解放してあげなければなりませんでした。皮膚の色が違うという理由だけで、人が人を搾取し、自由を奪うという不幸な歴史の連鎖を、断ち切らなければなりませんでした。ですから、私は一万キロ以上を飛び、いまだ悲哀に満ちているアフリカに足を踏み入れたのです。

 

 

 

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