【平和を愛する世界人として】第二章・神の召命と艱難(7)

  ☆☆☆ どうか死なずに耐え忍んでほしい ☆☆☆

 🌹ひたすら祈りに精進し続けるうちに、結婚する時がきたことを直感しました。神の道を行くと決めた以上、すべての歩みは神の支配下にあります。祈りを通して時を知ればしたがわざるを得ませんでした。そこで、仲人の経験豊富なある婦人に依頼して、定州(チョンジュ)の有名なキリスト教家庭の娘である崔先吉(チェソンギル)と見合いをした後、略式の婚約をしました。

 

 🌹彼女はとても由緒ある家庭で生まれ育った真心を尽くす女性でした。小学校しか出ていませんでしたが、ほんのわずかでも人の世話にはならないという性格で、神社参拝を拒否して十五歳で獄中生活をしたほど、信念のある信仰深い女性でした。私は二十四番目の新郎候補だったそうで、彼女は新郎を選びに選んだのです。しかしながら、ソウルに戻った私は、見合いをしたことさえ忘れてしまうほど切迫した思いに駆られていました。

 

 🌹私はもともと、留学から戻ったら、中国、ソ連、モンゴルの国境都市である中国の海拉爾ハイラルに行く計画でした。満州電業株式会社に就職して三年ほど生活しながら、中国語とロシア語、モンゴル語を学ぼうと考えていました。日本に打ち勝つために日本語を教える学校に通ったように、来るべき未来に備えようと、三国の国境地域に行って外国語をいくつか学ぶつもりでした。ところが、当時、情勢が尋常ではありませんでした。どうしても満州に行ってはならないようで、就職予定を取り消しに満洲電業安東(アントン)支店に行きました。そこで手続きを終えた後、故郷の定州(チョンジュ)に戻ってみると、お見合いを準備してくれた婦人が大騒ぎを起こしていました。婚約した女性が私でなければ嫁に行かないと言い張って大変だというのです。私を見るや否や女性の家に連れて行きました。

 私は彼女に、これから私がどう生きていくかをはっきり話しました。

「いま結婚しても、少なくとも七年ほどは、あなた一人で生きる覚悟をしなければならない」

「なぜそうしなければならないのですか」

「私には結婚生活よりもっと重要なことがある。実際、結婚するのも神様の摂理を遂行するためだ。私たちの結婚は、家庭を超えて、民族と人類を愛することのできる位置まで行かなければならない。私の意志がこうであっても、心から私と結婚したいのか」

 

 🌹すると女性は、「好きなようにしていいです。あなたに会った後、月の光の中で花が満開になっている夢を見たので、あなたは間違いなく天が私に下さった連れ合いです。ですから、どのような困難があっても我慢できます」と、気丈な態度で答えました。それでもまだ不安だった私は、何度か彼女の堅い誓いを確認し、そのたびに彼女は、「あなたと結婚出来さえすれば、どんな事情があっても尽くすので、何の心配もしないでください」と、答えて、私を安心させました。

 

 🌹四月に結婚式を挙げる予定が、義父が急に亡くなったので、当初の日取りを延期して1944年5月4日に婚礼を行いました。五月は普通ならのどかな春の日ですが、その日は土砂降りの雨でした。

 🌹当時の私は、同じソウルの龍山(ヨンサン)にある土木会社の鹿島組京城営業所に就職して、会社の仕事と教会の仕事を一緒にしていました。ところがその年の十月、新婚の家に突然日本の警察がやって来て、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、答えも待たずに私を京畿道キョンキド)警察部に連行しました。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、私の名前が出たことが理由でした。

 

 💛警察に連行された私は、いきなり拷問を受けました。

「おまえも共産党だろう? 内地に留学して、そいつと同じ仕事をしただろう? おまえがいくら違うと意地を張っても無駄だ。警視庁に照合すれば分かるようになっている。こんなところで犬死しないように、共産党の奴らの名前を全部吐くことだな」

 日本で同じ活動していた友人の名前を吐けと言って、机の脚に使う角材が四本とも壊れるほど殴られましたが、私は最後まで話しませんでした。

 

 🌹すると次に警察は、黒石洞(フクソクトン)の新婚の家を家捜しして日記帳を押収しました。彼らは日記帳を一枚一枚めくっていって、友人の名前を突き止めようとしましたが、私は死を覚悟して知らないと突っぱねました。

 

 🌹戦争は終わりの時が近づき、焦りの色を濃くした日本の警察の拷問は、とても言葉では言い表せないほど残酷でした。彼らは鋲(びょう)を打った軍靴で私の体を容赦なく踏みつけ、私が死んだようにぐったりすると、天井に吊るして揺らしました。精肉店の肉塊と化した私の体は、彼らが押す棒に任せてあちこち揺れ動き、口からは鮮血がほとばしってセメントの床を濡らしました。何度も気を失い、そのたびにバケツ一杯の冷水をかけられ、意識が戻ればまた拷問です。鼻をつまんで、洋銀製のやかんを口の中に突っ込み、大量の水を無理やり飲ませる拷問もありました。床に倒れた後、カエルのように膨れ上がったお腹を軍靴で踏みつけます。食道を通って上がってきた水を吐き出すと、目の前が真っ暗になって何も見えませんでした。そんな拷問を受けた日は、食道が燃えるように痛み、水っぽい汁でさえ一口も喉を通らず、剝き出しの床に力なくうつ伏せになって、びくとも動けませんでした。

 

 🌹私はついに友人の名を口にせず、拷問を耐え抜きました。意識が朦朧(もうろう)となる中でも、それだけは死にもの狂いで守り通しました。ところが、業を煮やした警察は、故郷の母親を呼ぶ作戦に出たのです。足が伸びきって思うように立つこともできなかった私は、複数の警官に両腕を挟まれて、面会室まで辛うじて歩いていきました。母は私に会う前から、もう目の周りが涙でただれていました。血まみれになった息子の顔を見て、「少しだけ我慢しなさい。自分が何としてでも弁護士をつけてあげるから。その時までどうか死なずに耐え忍んでほしいと必死に訴える母でした。

 

 🌹しかし、「いくら志が良くても、おまえの命を守るほうが先だ。絶対に死んではならない」と言って泣いている母を眺める私の心は、つらく切ないものでした。心の中では「お母さん!」と言って共に抱き合い、思いきり泣きたい気持ちでいっぱいでした。けれども、母親に面会させる警察の意図をよく知る私としては、そうはできなかったのです。母の言葉に対して、私ができる返事といえば、裂けてぶくぶくと膨れた目をしきりに瞬(まばたき)させることだけでした。

 

 🌹京畿道警察部に拘束された四か月間、下宿屋の李奇鳳(イギボン)おばさんたちとその姉妹たちが交代で差し入れをしてくれました。おばさんは面会するたびに泣くので、私は「少しだけ我慢すれば、この時代は間もなく終わります。遠からず日本は滅びますから泣かないでください」と、おばさんを慰めました。それは自分の言葉ではなく、神様が私に下さった信仰でした。

 

 🌹翌1945年2月、警察から解放されて出てくるとすぐ、私は下宿の日記帳をひとまとめにして、漢江(ハンガン)の川辺に行きました。そして、もうこれ以上友人に被害が及ばないように、それらのたくさんの日記帳をことごとく焼き捨てました。そのまま残しておけば、私が監獄に入るたびに禍根になるかもしれないものでした。

 

 🌹拷問でぼろぼろになった体は、なかなか回復しませんでした。長い間血便が出て、体を動かせずに難儀する私を、下宿屋のおばさんとその姉妹たちが、真心をこめて世話してくれました。

 

 🌹ついに1945年8月15日、待ちに待った光復の日が来ました。三千里半島(朝鮮半島の南北の長さを三千朝鮮里とした伝統的表現)が「万歳(マンセ)!」の声と太極旗(たいきょくき)の渦に覆われた感激の日でした。しかし私は、遠からず朝鮮半島に訪れるであろう驚くべき災難を予感して、とても深刻になり、喜んで万歳(マンセ)を叫ぶことができませんでした。独り小さな部屋に閉じこもって、祈りに熱中しました。不吉な予感どおり、祖国は日本の植民地支配から解放されましたが、すぐに三十八度線で国が二つに分かれました。北朝鮮の地に、神の存在を否定する共産党が足を踏み入れたのです。

 

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【平和を愛する世界人として】 第二章・神の召命と艱難(6)

             ☆☆☆ 穏やかな心の海 ☆☆☆

 🌹日本が始めた大東亜戦争の戦況は日増しに切迫していきました。切羽詰まった日本は、不足する軍人の穴を埋めるために、健康な二十歳以上の学生を休学させて、学徒兵として出征させました。そのため、私も六月早く卒業することになりました。

 

 🌹1943年9月30日に卒業して、故郷の家には「崑崙丸(こんろんまる)に乗って帰国する」と電報を打っておきました。ところが、帰国船に乗ろうとした日、足が地に付いて離れないという不思議な現象が起きました。出港する時間はどんどん迫ってくるのに、どうしても足を離すことができず、結局、崑崙丸に乗り損なってしまいました。

 

 🌹「崑崙丸に乗るなという天のみ意(こころ)のようだ」と思った私は、しばらく日本に留まることにして、友人たちと富士山に登りました。数日後、東京に戻ってきてみると、世の中は上を下への大騒ぎになっていました。私が乗ろうとした崑崙丸が撃沈されて、韓国に帰る乗船者のうち五百人以上が死んだという話でした。崑崙丸は、当時の日本が誇る大型高速船でしたが、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してしまったのです。

 

 🌹息子が乗る船が沈没したという知らせを聞いた母は、確かな情報を得るため、そのまま履物も履かずに定州邑(チョンジュウブ)の中心街まで二十里(約八キロメートル)の道を走っていきました。足の裏に太い棘が刺さったことにも気づかないで、魂が抜けたように私の名前ばかり呼んだそうです。その後、汽車に乗って釜山に下っていきました。釜山の海洋警察署に到着してみると、乗客者名簿に息子の名前はなく、東京の下宿からはすでに荷物をまとめて出発したと連絡を受けていたので、呆気にとられるばかりでした。

 

 🌹日本留学を終えて祖国に帰ってきたものの、それまでと何も変わるところがありませんでした。日本の圧政は日々激しくなり、国土は血の涙に濡れていました。私はソウルの黒石洞(フクソクトン)に再び腰を落ち着けて、明水台(ミョンスデ)エス教会に通いながら、日々新たに悟るすべての内容を几帳面に日記帳に書き留めることにしました。悟りの多い日は、一日で一冊の日記帳を使い切ることもありました。そうするうちに、数年にわたる祈祷と真理探究の総決算ともいうべく、それまでどうしても溶けなかった疑問についに答えを得たのです。それは一瞬の出来事でした。あたかも火の塊が私の体を通り抜けたかのようでした。

 

 💜「神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ」

 という悟りを得た瞬間、宇宙のあらゆる秘密が解かれました。

 🌹人類が神様の命令に背いて、堕落の道を歩む中で起こったすべての出来事が、映写機が回るように私の目の前にはっきりと広がりました。目から熱い涙がとめどなく流れ落ちました。私は膝まづいてひれ伏したまま、容易に起き上がることができませんでした。子供の頃、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝に顔を伏せて涙を流したのです。イエス様に出会って九年目にして、ようやく父の真の愛に目覚めたのでした。

 

 🌹神様は人類始祖アダムとエバを創造された後、生育し(人間として成熟)、繁殖(家庭を築き)、平和世界を築いて暮らしなさいと祝福してくださいました。しかし、アダムとエバは神様の定めた時と戒めを守ることができず、不倫を犯し、それによって二人の息子カインとアベルを生みました。堕落の落とし子となった息子たちは、互いを不信し、兄弟間の殺人を犯してしまいます。こうして平和は破れ、罪が世界を覆い、神様の悲しみが始まりました。ところが、人間はメシヤ(救い主)たるイエス様を殺すという大罪を再び犯してしまったのです。それゆえ、今日人類が被っている苦痛は、当然通過しなければならない贖罪(しょくざい)の過程であり、神様の悲しみは依然として続いているのです。

 

 🌹神様が十五歳の私に現れたのは、人類始祖の犯した罪の根が何であるかを伝え、罪と堕落のない平和世界を築こうとされたためでした。人類が犯した罪を贖罪し、太古の平和世界を復元するようにというのが、私が神様から授かった厳重なみ言(ことば)でした。神が願う平和世界は死んでから行く天国ではありません。神の願いは、私たちが生きるこの世の中が、太古に創造されたその場のように、完全に平和で幸福な世界になることです。神は人類に苦痛を与えたくて、アダムとエバを誕生させたわけではないのです。私はこの驚くべきみ言を世の中に伝えなければなりませんでした。

 

 🌹宇宙創造の秘密を解明すると、💜私の心は海のように穏やかになりました。私はぼろを着て下を向いたまま歩き回りましたが、💛心はあふれんばかりの神のみ言に満たされ、私の顔からは喜びの輝きが消えませんでした。

 

 

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                        ☆☆☆ 人間の責任分担と堕落 ☆☆☆

 🌹罪の基盤、堕落の基盤、悪の基盤、地獄の基盤、このようなものが具体的にどのように生じるようになったかということが問題です。これは、アダムとエバまで戻って考えてみなければなりません。アダムとエバがなぜ堕落したのかという根源を掘り返してしてみれば、アダムとエバは、神様が命令した「善悪の実を取って食べるな」というみ言を不信して堕落しました。二つ目は、自己中心的だったことです。三つ目は、自己を中心として愛そうとしたことです。これが堕落した中心的骨子の内容なので、この内容のようにするのはサタン側であるという結論が出てくるのです。堕落した人々は、不信の愛、自己中心の愛で愛した人たちです。結局、自己中心の愛を主張するのがこの世界の人々だと見るのです。

 

               ☆☆☆ 堕落の動機と理由 ☆☆☆

 🌹聖書には、善悪の実を取って食べたと書かれています。そして、「口にはいるものは人を汚すことはない」(マタイ15・11)とあります。善悪の実を取って食べるなら、目で見て、その次には手で触って口に入れなければなりません。ところが、善悪の実を取って食べた後、どうしましたか。口や手、目を隠すのではなく、下部を覆ったのです。全く関係ない部分を覆ったというのです。天使と姦淫をしたという事実と、エバが下部を覆ったという問題を見るとき、私たちはここに共通した内容があると考えざるを得ません。エバは善悪の実を取って食べてから恥ずかしいことを悟り、アダムに善悪の実を取って食べるように強要しました。エバは天使と不倫の性関係を結んだ結果、自分の本当の夫が天使長ではなく、アダムであることを知ったのです。神様のみ前に帰らなければならない自分自身が恐ろしいので、自分がとどまることのできる場所を探すためにアダムを誘い出したのです。そうしてアダムとエバの二人の関係を結び、二人とも下部を覆って隠れました。覆ったという事実は、結局、恥ずかしい所ができたということです。すなわち、神様のみ前に見せることのできない科ができたということです。

 

 

 🌹男性は女性の、女性は男性のために生まれたのですが、自体自覚ではない他我自覚(他と我は一つだという自覚)をして、自体自覚が再認定されれば、二人の所有権と勝利圏が備わるのです。しかし、相対圏の二人の価値を融合させる前に、自体自覚をして行動に出てしまったのが堕落です。なぜそれによって、神様がこのように手を付けられず、無力になったのでしょうか。堕落というのが、なぜそれほどまでに深刻かというのです。善悪の実を取って食べたなら、なぜ下部を覆ったのですか。血を汚したのです。血を汚したというのは生命を汚したことであり、生命を汚したということは愛を汚したということです。天地大道の神経器官になるべき人間が、未成年期に堕落しました。誰が彼女を奪ったのですか。僕である天使長が、神様の娘、未来においては神様の妃になることができ、神様の外的な体になることができるエバを奪ったというのです。血統を取り替えたのです。

                【天聖経・第四編・第二章人間の責任分担と堕落】より

【平和を愛する世界人として】第二章・神の召命と艱難(5)

              ☆☆☆ 労働者の友となった苦労の王様 ☆☆☆☆

 🌹ソウルにいた時と同様、東京でも行かない所がないくらいあらゆる土地を歩き回りました。友人が日光のような景勝地を見物に行くときも、私は一人残って東京市内の至る所を歩いて回ってみました。見た目はきらきらして華やかでも、東京の街もやはり貧者の天下でした。私は家から送金されたお金を皆、貧しい人々に分け与えました。

 

 🌹その時代は誰もがお腹を空かせていました。留学生の中にも苦学生が大勢いました。私は一か月分の食券が手に入ると、全部持って行って彼らに渡して「食べろ、思う存分食べろ」よ言ってすべて使い果たしました。自分ではお金の心配はしませんでした。どんな所でも働いて仕事をすれば、ご飯は食べることができたからです。お金を稼いて苦学生の学費を助けるのも私の楽しみでした。そうやって、人を助けたりご飯を食べさせたりすれば、体の奥からふつふつと力が沸いてきました。

 

 🌹所持金をはたいて全部分け与えた後は、リヤカーで荷物を配達する仕事をしました。東京の二十七の区域をリヤカーで縫うようにして回りました。電信柱を載せたリヤカーを引いて華やかな街灯がともる銀座を通った時、交差点の途中で信号が赤になってしまい、その場に立ち止まったため、道行く人々がびっくりして逃げていったこともあります。おかげで、今でも東京の隅々まで手に取るように分かります。

 

 🌹私は労働者の中の労働者であり、労働者の友達でした。汗の臭いと小便の臭いが漂う彼らと肩を並べて、私もまた作業現場に行って汗を流して働きました。彼らは私の兄弟だったのであり、それゆえに、ひどい臭いも気になりませんでした。真っ黒なシラミが列をなして這っている汚い毛布も、彼らと一緒に使いました。何層にも垢がこびりついた手も、ためらわずに握りしめました。垢まみれの彼らが流す汗には粘っこい情けがあり、私はその情けが面白くて好きでした。

 

 🌹主に川崎鉄工所と造船所で肉体労働をしました。造船所には石炭運搬用の「バージ」と呼ばれる艀(はしけ)があって、ポンポン船がそれを曳航(えいこう)します。私は三人一組になって、午前一時までに石炭百二十トンをバージに積み込む仕事をしました。日本人が三日かけてする仕事を、韓国人は一晩でやってのけます。韓国人の手際のよさを見せてやろうと思い、無条件に一生懸命働きました。

 

 🌹作業現場には、労働者の血と汗を搾り取る輩がいます。労働者を直接管理する班長が往々にしてそうです。彼らは、労働者が汗水垂らして稼いだお金の三割をピンはねして、私腹を肥やしていました。しかし、力のない労働者は全く抗議できませんでした。弱い者を苦しめ、強い者にへつらう人間。そんな班長に腹が立って我慢ならなかった私は、“三銃士”の友人を呼び集めて彼の元を訪ねていき、「仕事をさせたなら、させたとおりに金を払え!」と食ってかかったことがあります。一日で駄目なら二日、三日としぶとく詰め寄りました。それでも全く話を聞かないので、私の大きな体で足蹴りをして、班長をふっとばしてしまいました。私はもともと無口でおとなしい人間ですが、怒ると子どものころの意地っ張りの気質が蘇り、蹴飛ばしてしまうこともよくやります。

 

 🌹川崎鉄工所には硫酸タンクがありました。労働者は硫酸タンクを掃除するために、タンクの中に直接入っていって原料を排出する仕事をします。硫酸はとても有害で、タンクの中に十五分以上入っていることはできません。そんな劣悪な環境の中でも、彼らはご飯のために命がけで働きます。ご飯というものは、命とも引き換えにできるくらいに重要なものでした。

 

 🌹私はいつも空腹でしたが、いくらお腹が空いても自分のために食べることはしませんでした。ご飯を食べるときには、はっきりした理由がなければならないと考えました。それで食事のたびに、お腹が空いた理由を自らに問いただしてみました。「本当に血と汗を流して働いたのか。私のために働いたのか、それとも公的なことのために働いたのか」と尋ねてみました。ご飯を前にするごとに「おまえを食べて、昨日よりもっと輝いて、公的なことに取り組もう」と言うと、ご飯が私を見て笑いながら喜んだのです。そんなときは、ご飯を食べる時間がとても神秘的で楽しい時間でした。そうでなければ、どんなにお腹が空いても食事をしなかったので、一日に二食食べれる日もそれほど多くありませんでした。

 

 🌹元から食べる量が少なくて一日二食で我慢したのではありません。若い盛りでしたから、私も食べ始めれば切りがありませんでした。大きな器に盛ったうどんを十一杯まで食べたこともあり、また親子どんぶりを七杯食べたこともあります。それくらい食欲旺盛だったのに、昼食を抜いて一日二食しか食べない習慣を三十過ぎまでかたくなに続けました。

 

 🌹お腹が空けば食べ物が恋しくなります。空腹時のご飯の恋しさは嫌というほど知っていますが、世界のためにご飯一杯ぐらいは犠牲にできて当然だろうと思いました。新しい服を着てみたこともないし、どんなに寒くても部屋に火を入れませんでした。とても寒い時の一枚の新聞紙は、絹の布団のように温かいものです。私は一枚の新聞紙の価値をよく知る男です。

 

 🌹ある時は品川の貧民窟で生活してみました。ぼろを被ったまま寝て、日差しの強い真昼になってシラミを捕まえたり、乞食たちがもらってきたご飯を分け合って食べたりしました。品川の通りには、流れ者の女性も大勢いました。一人一人事情を聞いてあげると、お酒を一口も飲めない私が、いつしか彼女たちのかけがえのない友になっていました。お酒を飲まなければ本心を打ち明けられないというのは空しい言い訳です。酒の力を借りなくても、彼女たちを不憫に思う私の心が真実だと分かると、彼女たちも素直な心で胸の内を明かしました。

 

 🌹日本で勉強する間、本当にありとあらゆることをしてみました。ビルの小使いや文字を書き写す筆生(ひっせい)の仕事もしました。作業現場で働いて現場監督をしたこともあれば、人の運勢を占ったこともあります。生活に困れば、文字を書いて売ったりもしました。それでも勉強はおろそかにはしませんでした。私は、そうしたことはすべて自分自身を鍛錬する過程だと考えました。いろいろなことをして、いろいろな人に会ってみましたが、それを通して、人間をより多く知るようになりました。おかげで、人をちらっと見れば、「ああ、何をしている人だな」「この人は良い人だな」とすぐに分かります。頭であれこれ考える前に、体が先に分かってしまうのです。

 

 🌹私は今でも、人間が人格完成しようと思えば、三十歳になるまでは苦労してみなければならないと考えます。三十歳になるまでに、人生のどん底を這いずり回るような絶望の坩堝(るつぼ)に一度ぐらいははまってみるべきでしょう。絶望の奈落の底で新しいものを探し出せというのです。そうすれば「ははあ」と驚きの声を上げながら「今の絶望がなければ、このような決心はできなかったはずだ」と心を新たにするようになります。絶望の淵から驚きの声を上げて抜け出してこそ、新しい歴史を創造する人に生まれ変わることができるのです。

 

 🌹一か所だけ、一方向だけ見ていても大事は成せません。上を見ても、下を見て、東西南北をすべて見なければなりません。人の生涯はどれも同じ七十年、八十年ではないのです。一度しかない人生であり、その間に成功できるか否かは、自分の目で物事を正しく見られるかどうかにかかっています。それには豊富な経験が物を言います。また厳し環境にあっては、余裕のある人間味と柔軟な自主性が必ず必要です。

 

 🌹人格者は、一度上がって急降下する人生にも慣れていなければなりません。大抵の人は一度上がると、下がるのを恐れて、その地位を守ろうと汲々としますが、淀んだ水は腐るようになっています。上に上がったとしても、下に下りていって、時を待った後にさらに高い頂(いただき)に向かって上がっていくことができてこそ、大勢の人から仰がれる偉大な人物、偉大な指導者になれるのです。三十歳になる前の若い時代に、こうしたことをすべて経験しておくべきです。

 

 🌹ですから、私は今も青年たちに、世の中のあらゆることを経験してみなさいと勧めています。百科事典を最初から最後まで隈なく目を通すように、世の中のすべてのことを直接、間接に経験したとき、初めて自らの拠(よ)って立つ価値観が定まります。価値観とは何でしょうか。それは自らの明確な主体性です。「全国を見回してみても、私を負かす者はなく、私にかなう者はない」という自信を得た後に、最も自信のあるものを一つ選んで、一気に勝負をつけるのです。そうやって人生を生きれば必ず成功するし、成功せざるを得ません。東京で乞食の生活をしながら、私は以上のような結論に達しました。

 

 🌹私自身も、東京で労働者と寝食を共にしながら、また乞食と食うや食わずの悲哀を分かち合いながら、苦労の王様、苦労の哲学博士になってみて、初めて人類を救おうとする神の御旨(みむね)を知ることができました。それゆえ、三十歳までに苦労の王様になることです。苦労の王様、苦労の哲学博士になること、💜それが天国の栄光に至る道です。

 

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【平和を愛する世界人として】第二章・神の召命と艱難(4)

           ☆☆☆ ぐつぐつと煮えたぎる火の玉のように ☆☆☆

 🌹京城(けいじょう)商工実務学校を終え、1941年に日本に留学しました。日本をはっきりと知らなければならないという考えから出発した留学でした。汽車に乗って釜山に下っていくとき、なぜか涙があふれて、外套を被っておいおい泣きました。涙と鼻水が止まらず、顔はぱんぱんに腫れあがっていました。植民統治下で呻吟(しんぎん)する孤児に等しいわが国を後にする心は、これ以上ないほど悲しいものでした。そうやって泣いた後で窓の外を見ると、わが山河も私以上に悔しく悲しそうに泣いていました。山川草木(さんせんそうもく)から涙がぽろぽろと流れ落ちる様を、私はこの両目ではっきりと見ました。痛哭する山河に向かって、私は約束しました。

 🌹「故国の山河よ、泣かないで待っていろよ、必ず祖国光復を胸に抱いて帰ってくるからな」釜山港から関釜(かんぷ)連絡船に乗り込んだのは四月一日の午前二時でした。強い夜風に打たれても、私は甲板を離れることができず、次第に遠ざかっていく釜山を眺めて、一睡もせずに夜を過ごしました。

 

 🌹東京に到着した私は、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科に入学します。現代科学を知らなくては新しい宗教理念を打つ立てることはできないと考えて、電気工学科を選びました。

 🌹目に見えない世界を扱う数学は、宗教と一脈相通じる面があります。大事を成そうと思えば数理の力に優れていなければなりません。私は頭が大きいせいか、人が難しいという数学に長けており、数学を好みました。頭に合う帽子を探すのが大変で、直接工場に足を運んで二度も合わせ直して作ったほど、頭が大きかったのです。一つのことに集中すれば、普通なら十年かかるところを三年もしないでやりと遂げられるのも、大きな頭のおかげかもしれません。

 

 🌹日本留学時代も、韓国にいた時と同じように、先生方に向かって質問を浴びせました。一度質問を始めると、先生の顔が赤くなるまで質問し続けました。そのせいで、「これをどう考えますか」と質問しても、ある先生などは最初から無視して私を見ようともしませんでした。しかし私は、疑問が生まれると、必ず根っこまで掘り下げて解決しなければ納得できないのです。先生を窮地に追い込むのが目的ではありません。どうせ勉強するなら、それくらい徹底してやらなければ意味がないと思いました。

 

 🌹下宿した家の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、『聖書』はすっかり真っ黒になってしまいました。

 

 🌹入学と同時に参加した韓人留学生の新人生歓迎会で、私は祖国の歌を力強く歌って、熱い民族愛を誇示しました。警察官が居合わせた席でしたが、かまわず堂々と歌い上げました。その年、早稲田高等工学校建築学科に入学した巌徳紋(オムドンムン)は、その歌声に魅了されて、私の生涯の友人になりました。

 

 🌹東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本の殖民統治下で呻吟(しんぎん)していたのです。独立運動は当然のことでした。日本政府が韓国の学生たちを学徒動員という名目で戦場に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になって行きました。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金九(キムグ)先生の大韓民国臨時政府(金九は当時主席)と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。いざとなれば命を投げ出さなければならない立場でしたが、正義のためという考えから、ためらいはありませんでした。

 

 🌹早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅(か)ぎつけて、埠頭(ふとう)や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取り調べを受けたり、殴られたり、留置所に拘禁されたりすたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四谷の橋で、欄干の柱を抜いて戦ったこともあります。💛この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。

 

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【平和を愛する世界人として】第二章・神の召命と艱難(3)

☆☆☆ 巨大な秘密の門を開ける鍵 ☆☆☆

 🌹故郷で山という山は全部足を運んで登ったように、ソウルも隅々まで行かなかった所がありません。その頃、ソウル市内を電車が走っていました。電車賃は五銭でしたが、それさえもったいなくて、🍀いつも歩いて行きました。蒸し暑い夏の日は汗をたらたら流して歩き、極寒の冷たい冬は肉を抉る(えぐる)ような風をくぐり抜けるようにして歩きました。もともと足が速い私は、黒石洞(フクソクトン)から漢江(ハンガン)を渡ってチョンノの和信(ファシン)百貨店まで四十五分あれば着きました。普通の人には一時間半ほどの道のりですから、どれだけ早足だったか想像がつくでしょう。浮いた電車賃は貯めておいて、私以上にお金に困った人に分け与えました。出すのが恥ずかしいくらいの微々たる金額だとしても、大金を出せなくて申し訳ないという気持ちで、そのお金が福の種になるようにと思って渡しました。

 

 🌹四月には故郷からきちんと学費を送ってきましたが、生活が苦しい周囲の人たちを見過ごしにできず、五月になる前に全部なくなりました。学校に行く途中、息も絶え絶えの人に出くわしたことがあります。かわいそうに思うと足が止まってしまい、その人を背負って二キロほど離れた病院に向かって走り出しました。運良く財布に入っていた学費の残りで治療費を払うと、あとはもうすっからかんです。今度は自分の学費が払えなくなり、学校から督促を受けることになりました。それを見て、友人がお金を一銭、二銭と集めてくれました。その時の友人は生涯忘れられません。

 

 🌹助け合うこともまた、天が結んでくれる因縁です。その時はよく分からなくても、後で振り返ってみて、「ああ、それで私をその場に送られたのか」と悟るようになりました。ですから、突然私の前に助けを乞う人が現れたら、💛「天がこの人を助けるようにと私に送られたのだ」と考えて、心を込めて仕えます。天が「十を助けなさい」と言うのに、五しか助けないのでは駄目です。「十を与えよ」と言われたら、百を与えるのが正しいのです。🌺人を助けるときは惜しみなく、財布をはたいてでも助けるという姿勢が大切です。

 

 🌹ソウルにきて、ケピトック(風餅)というお菓子を初めて見ました。色や模様が美しいので、「ああ、こんなに美し餅がたくさんあるなあ」と言って口に入れて噛むと、中の空気が抜けてぺちゃんこに潰れるではありませんか。その時思いました。ああ、ソウルという所はそのままこのケピトックのようだ、と。「抜け目のないソウルっ子」という言葉がなぜ生まれたのか分かった気がしました。ソウルは外から眺めると、地位の高い立派な職業の人ばかりいる富者の世の中に見えますが、その実態は貧者の天下です。漢江(ハンガン)の橋の下にぼろぼろの服を着た乞食があふれていました。私は漢江の橋の下の貧民窟を訪ねて行き、彼らの頭を刈って心を通わせました。貧しい人は涙もろいのです。胸の中に溜まりにたまった思いが高ずるのか、私が一言声をかけても泣き出して、大声で泣き叫びました。手には、ぽりぽり掻くと白い跡ができるほど、べっとりと垢がこびりついています。物乞いでもらってきたご飯を、その手でじかに私にくれたりもしました。そんな時は、汚いとは言わずに喜んで一緒に食べました。

 

 🌹ソウルにいたときも熱心に教会に通いました。教会で日曜学校の先生を務めたことを思い出します。私の話は抜群に面白くて、子供たちがとても喜びました。

 🌹明水台(ミョンスデ)の裏側に瑞達山(ソダルサン)があります。 瑞達山の岩に登って、🍀しばしば夜を徹して祈りました。寒くても暑くても、一日も休まず祈りに熱中しました。🍀一度祈りに入れば涙と鼻水が入り混じるくらい泣き、神様から受けたみ言(みことば)を胸に抱いて、何時間も祈りだけに集中しました。🍀神様のみ言はまるで暗号のようで、それを解こうとすればより一層祈りに没頭しなければなりません。今考えると、その時すでに、🍀神様は秘密の門を開ける鍵を親切に与えてくださったのに、私の祈りの不足ゆえにその門を開けることができませんでした。そういう訳で、ご飯を食べても食べた気がせず、目を閉じても眠れませんでした。

 

 🌹一緒に下宿していた友人たちは、私が山に登って夜通し祈っていることはよく知らないようでした。それでも、他の人とは違う何かが感じられたのか、私に一目置いていました。平素はおどけた言動をして仲良く過ごしたものです。私は誰とでも気持ちがすっと通じます。お婆さんが来ればお婆さんと友達になり、子供たちが来れば子供たちとふざけたりして遊びます。🌻相手が誰であっても、愛する心で接すればすべて通じるのです。

 🌹黒岩洞(フクソクトン)の頃、早朝祈祷会で私の代表祈祷に感化され、私を訪ねてきて親しくなった💜李奇完(イギワン)おばさんとは、この世を去るときまで四十数年間、友情を分かち、友として交流しました。💚妹の李奇鳳(イギボン)おばさんは、私が下宿した家の女主人でした。下宿の掃除で何かと忙しそうにしていましたが、いつも私に温かく接してくれました。私に良くすれば自分の心が楽になるといって、おかず一つでももっと食べさせようと気を配ってくれました。無口で、別段面白みもない私を、なぜそんな風に可愛がって良くしてくれたのか分かりません。後日、私が京畿道キョンキド)警察部に収監された時は差し入れもしてくれました。💛今も李奇鳳(イギボン)おばさんを思えば胸が温かくなります。

 

 🌹自炊の家の近所で小さなお店を出していた宋(ソン)おばさんも、その頃の大事な恩人です。おばさんは、故郷を離れて暮らすのはお腹が空いて大変だろうといって、店の売れ残りがあると何でも持ってきてくれました。小さな店を切り盛りしてやっと食べている立場なのに、私にはいつも厚い情けをかけてくれて、食べ物を用意してくれました。

 

  🌹漢江の川辺で礼拝を捧げた日のことです。昼食時間になって会衆はばらばらに座ってご飯を食べ始めました。昼食を取らない私は、その中にぼんやり座っていても仕方ないので、一人だけですっと後ろに離れて、川辺の石の小山に座っていました。それを見た宋おばさんが、🍀パン二個とアイスケーキを二個持ってきてくれました。それがどれだけありがたかったかしれません。一つ一銭で、全部で四銭にしかならないものでしたが、💜おばさんの心遣いは今も私の心に刻まれています。

 

 🌹いくら小さいことでも、いったんお世話になったら生涯忘れることはできません。年が九十歳になった今も、いつ誰が何をしてくれたか、また、いつ誰がどのようにしてくれたか、すらすら話すことができます。私のために労苦惜しまず、陰徳を施してくれた人たちを生涯忘れることはできません。

 🌹陰徳を受けたときは、必ずもっと大きくして返すのが人の道です。しかし、その人に直接会えないこともあるでしょう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを今度はほかの人に施そうという一途な心で生きるのが良いのです。

 

 

     ☆☆☆ 真の人間の心と体 ☆☆☆

 私たちはよく、「心がまっすぐだ」と言います。一直線に垂直に立ったものを「まっすぐ」と言います。木も横に傾いたものは「まっすぐ」とは言いません。心がまっすぐだというのは、垂直に立っているという意味です。ですから人は立って歩くのです。垂直になってこそまっすぐなのです。自分の心を完全に垂直にしなければなりません。そこにおいて体が水平線になるのです。このように垂直と水平が私たちの内部で形成されるとき、垂直において引く力と水平において押す力がバランスを取るようになり、求心力と遠心力が形成されるのです。

 

     ☆☆☆ 心は第二の神様 ☆☆☆

 十人の友人の中で、「私のために生きろ」という人からは、友人がすべて離れていきます。しかし、九人のために自分の生命まで捧げようとする人は、その中心者になるのです。ですから、ために生きるようになれば、滅びるのではありません。主人になるのであり、師にもなるのであり、父母にもなるのです。

 神様は遠くにいらっしゃるのではありません。「私」の中にいらっしゃいます。心が皆さんの主人です。夜に悪いことをしようとしても、現れて「してはいけない」と言い、いつでも現れて主人の役割を果たし、どこでも母のように、師のようにお教えてくれるのです。

 

               【天聖経・第一章・神様が創造された真の人間】より

 

【平和を愛する世界人として】第二章・神の召命と艱難(2)

  ☆☆☆ 胸が痛ければ痛いほどひたむきに愛せ ☆☆☆

 私は非常に激しく混乱しました。両親にも打ち明けられず、かといって、心の中にぎゅっとしまい込んでおくわけにもいかない大きな秘密を抱えてしまったのです。どうしていいか分からず、途方に暮れました。明らかなことは、私が天から特別な任務を託されたという事実です。しかし、一人でやり遂げるにはあまりにも大きな責任でした。しかもその内容たるや驚くべきものがありました。到底自分には果たし得ないと思って、不安と恐怖におののく毎日でした。混乱した心を何とかしようと、以前にも増して祈りにすがりつきましたが、それすら役に立ちません。いくら努力しようとも、イエス様に会った記憶から少しも逃れられなかったのです。

💛泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、私はその恐れを詩に書きました。

 

  人を疑えば、苦しみを覚え

  人を裁けば、耐えがたくなり

 

  人を憎めば、もはや私に存在価値はない

  しかし、信じてはだまされ

  今宵、手のひらに頭(こうべ)を埋(うず)めて、苦痛と悲しみに震える私

 

  間違っていたのか、そうだ、私は間違っていた

  だまされても、信じなければ

  裏切られても、赦(ゆる)さなければ

 

  私を憎む者までも、ひたむきに愛そう

 

  涙をふいて、微笑んで迎えるのだ

  だますことしか知らない者を

  裏切っても、悔悟(かいご)を知らない者を

 

  おお主よ! 愛の痛みよ!

  私のこの苦痛に目を留めてください

  疼(うず)くこの胸に主のみ手を当ててください

  底知れぬ苦痛に心臓が張り裂けそうだ

 

  されど 

  裏切った者らを愛したとき

  私は勝利を勝ち取った

 

  もし、あなたも私のように愛するなら

  あなたに栄光の王冠を授けよう 

 

👑15歳の時、この「栄光の冠」は2002年、世界詩コンテスト最優秀賞受賞作品です。

 

🌹エス様に会った後、私の人生は完全に変わりました。エス様の悲しい顔が私の胸中に烙印のように刻まれ、他の考え、他の心は全く浮かびませんでした。その日を境に、私は神様のみ言に縛られてしまいました。ある時は、果てしない暗闇が私を取り囲み、息つく暇(いとま)さえないほどの苦痛が押し寄せたし、またある時は、昇る朝日を迎えるような喜びが心の中に満ち溢れました。そういう毎日が繰り返されて、私は次第に深い祈りの世界に入っていきました。エス様が直接教えてくださる新しい真理のみ言を胸に抱いて、神様に完全に捕らえられて、以前とは全く異なる人生を歩むようになりました。考えることが山ほどあって、次第に口数の少ない少年になったのです。

 

🌹神の道を行く人は、常に全力で事に当たり、心を尽くして、その目的地に向かっていくべきです。この道には執念が必要です。生来、頑固一徹な私は、元から執念の塊です。生まれつきの性質そのままに、苦難にぶつかっても執念で克服して、私に与えられた道を進んできました。試練に遭って翻弄されるたびに私を深いところで支えてくれたのは、「神様から直接、み言を聞いた」という厳粛な事実でした。しかし、一度しかない青春をかけてその道を選ぶことが、たやすいことだったでしょうか。逃げたい気持ちになったこともあります。

 

🌹知恵ある人は、どんな困難でも、未来への希望を抱いて黙々と歩いていきますが、愚かな人は、目の前の幸福のために未来を無駄に投げ捨ててしまいます。私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。神が願う道を行くために、一つしかない命を喜んで捧げました。逃げようとしても逃げ場がなくて、私が行く道はただその道以外にありませんでした。

 

🌹ところで、神はなぜ私を呼ばれたのでしょうか。九十歳(数え)になった今も、毎日、神が私を呼ばれたのかを考えます。この世の中の無数の人の中から、よりによってなぜ私を選ばれたのか、容貌が優れているとか、人格が素晴らしいとか、信念が強いとか、そういうことではありません。私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったとも言えます。いつ、いかなる場所でも、最も大切なものは愛です。神は、愛の心をもって生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです。☘私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。この年になっても、🌹私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。

 

🌹私は自分では何も分からなかったので、すべてのことを神に尋ねました。「神様、本当にいらっしゃいますか」と尋ねて、神が確かに実在することを知りました。「神様にも願いがありますか」と尋ねて、神にも願いがあるという事実を知りました。「神様、私が必要ですか」と尋ねて、こんな私でも神に用いられるところがあると知りました。

 

🌹私の祈りと至誠が天に届く日には、イエス様は必ず現れ、特別なみ言を伝えてくださいました。切実に知りたいと願えば、エス様はいつでも穏和な顔で真理の答えをくださいました。エス様のみ言は鋭い矢のように、一直線に私の心深くに突き刺さりました。それは単なるみ言ではなく、新しい世界を開く啓示のみ言、宇宙創造の真実を明かすみ言でした。エス様は風が傍らを通り過ぎるようにお話しになりましたが、私はそのみ言を胸に抱いて、木の根っこを抜く思いで切実な祈りを捧げ、宇宙の根本と世の中の原理を少しずつ悟っていきました。

 

🌹その年の夏休み、私は祖国巡礼の旅に出ました。一文無しでもらい食いをして、運が良ければトラックに乗せてもらいながら、全国津々浦々を巡ってみました。祖国はどこに行っても涙の坩堝(るつぼ)でした。飢えた民衆の苦痛に満ちた息遣いが絶えることはなく、彼らの凄絶(せいぜつ)な悔恨(かいこん)の涙が川のように流れました。

「一日も早くこの悲惨な歴史を終わらせなければ、もうこれ以上、わが民族を悲しみと絶望に陥るままにしておいてはならない。何としてでも日本にも行き、アメリカにも行って、韓民族の偉大さを世界に知らせる方法を探し求めなければならない」

 祖国巡礼を通して、私はもう一つの新たな課題を得て、今後の志をさらにしっかりと立てました。

 「必ず民族を救い、神様の平和をこの地に成し遂げます」

🌹両拳(こぶし)をぎゅっと握るや心も引き締まり、進む道がはっきりと見えました。

 

 

        ☆☆☆ 神様の召命 ☆☆☆

 神様は、私たち個人を尋ねてこられますが、その個人を中心として家庭と社会、ひいては世界まで取り戻すことを願われます。ところが、この道がまだ塞がっています。天の摂理歴史路程は、「私」を求めて地にまで下りてきました。ですから、私を中心として再び天の方向に進まなければならないのですが、その道が塞がっています。

 それだけでなく、善を追及する人たちは、今までこの世俗的なあらゆるものを切って、否定しながら、失った本然のものを神様にみ前に再び探したてることができる道を探そうとしましたが、このような道は限界にきています。

 今、皆さんが感じなければならないことは、神様の悲しみです。イエス様の悲しい心情を体恤(たいじゅつ)しなければなりません。そして、神様は六千年という長い歳月を、悲しみの中であえぎながら、皆さん一人を求めて来られたという事実を、実態的に感じなければならないのです。

                 【天聖経・第四章 第一節・神の召命】より

 

 

 

 

 

【平和を愛する世界人として】第二章・神の召命と艱難(1)

   ☆☆☆ 恐れと感激が交差する中で ☆☆☆

 🌹私は物心がついてくると、「将来何になるのか」という問題について熱心に考え始めました。自然を観察し研究することが好きだったので、科学者になろうかと考えましたが、日本の収奪に苦しめられ、日に三度の食事さえままならない人たちの惨めな有様を目にして、考えを変えました。科学者になってノーベル賞を取ったとしても、ぼろを身にまとい、飢えた人たちの涙を拭うことはできないと思ったからです。

 

 🌹私は人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人になりたかったのです森の中に横になって鳥たちの歌声を聞くと、「あのさえずりみたいに、誰もが仲良く暮らせる世の中を築こう。一人一人の顔をかぐわしい花のように素晴らしくしてあげたい」という思いが自然と沸き上がってきました。一体どんな人になればそうできるのか、それはまだよく分かりませんでしたが、人々に幸福をもたらす者になろうという心だけは固まっていました。

 

 🌹私が十歳の頃、牧師である潤國ユングク)大叔父の影響で、私たち一家は全員キリスト教に改宗しました。猫頭山(ミョドウサン)のふもとにある徳興(トクフン)長老教会に入教し、熱心に信仰生活をしたのです。その時から、私は真面目に教会に通って、礼拝を一度も欠かしませんでした。礼拝時間に少しでも遅れると、あまりにも恥ずかしくて、顔を上げることができませんでした。まだ子供なのに何を思ってそうしたかというと、私の心の中には、その時すでに神の存在がとても大きな位置を占めていたのです。そして、生と死や人生の苦しみ悲しみについて、深刻に悩む時間が増えていきました。

 

 🌹十二歳の時、曾祖父のお墓を移葬するのを見たことがあります。本来は一族の大人だけが参列する場でしたが、人が死ねばどうなるのか直接見たいという欲求に駆られて、必死に割り込んで入れてもらいました。墓を掘り起こして移葬する様子を見守った私は、驚きと恐怖に襲われました。儀礼作法を弁(わきま)えた大人たちが集まって墳墓を開けたとき、私の目に飛び込んできたのはか細い骨の欠片だけでした。両親から聞いていた曾祖父の姿は跡形もなく、白い骨だけがぞっとするような醜い姿を現しました。

 

 🌹曾祖父の骨を見てから、私はしばらくの間、その衝撃から抜け出すことができませんでした。「曾祖父も生きておられた時はみんなとまったく同じ姿をしていたはずなのに……。  そうすると、父や母も亡くなれば曾祖父のように白い骨だけが残るのか。自分も死ねばそうなるのか。人はみんな死ぬけれど、死んだ後は何も考えられず、そのまま横たわってばかりいるのか。思いはどこにいくのか……」 

 

 💜そうした疑問が頭の中を離れませんでした。

 💜その頃、家の中でおかしな出来事がたくさん起きました。

 

 🌹十五歳の頃、十三人の兄弟姉妹のうち五人の弟妹が、わずか一年で相次いでこの世を去るという悲劇も経験しました。一度に五人もの子供を失った両親の傷ついた心は言葉で表現しようがありません。ところが、ぞっとすることに、不幸はわが家の塀を越えて一族にまで及びました。丈夫だった牛が急に死に、続いて馬が死に、一晩のうちに豚が七匹も死んでいきました。

 

 🌹家族の苦痛は民族の苦痛、世界の苦痛と無縁ではありません。次第にひどくなる日本の圧政とわが民族の悲惨な立場を見つめて、私の苦悩もただ深まるばかりでした。食べる物がなくて、人々は草や木の皮もあるだけもぎ取って、それを煮て食べるほどでした。世界的にも戦争が絶えませんでした。

 🌹そんなある日のことです。新聞で、私と同じ年の中学生が自殺したという記事を読みました。

 「その少年はなぜ死んだのだろう。幼い年で何がそんなにつらかったのか……」

 少年の悲しみがまるで私自身の悲しみであるかのように感じられて、胸が締めつけられました。新聞を広げたまま三日三晩泣き通しました。とめどなく涙が流れて、どうしようもありませんでした。

 

 🌹世の中でなぜこれほど異様なことが相次いで起こるのか、なぜ善良な人を悲しみが襲うのか、私には全く理解できませんでした。曾祖父の墓を移葬する際に遺骨を目撃してからというもの、生と死の問題に疑問を持つようになった上、家の中で起こる理解しがたい出来事によって、私は宗教に頼るようになりました。しかしながら、教会で聞くみ言だけでは、生と死に関する疑問をすっきりと解くことができませんでした。もどかしく思った私は、自然と祈りに没頭するようになりました。

 

「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」

「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてあるのか」

「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」

「神が全能のお方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」

「神がこの世をつくられたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」

「日本に国を奪われた我が国の悲劇はいつ終わるのか」

「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」

「なぜ人間は互いに憎み合い、争って、戦争を起こすのか」

 💜等々、実に深刻で本質的な問い掛けが私の心を埋め尽くしました。

 

 🌹誰も容易に答えられない問いなので、答えを得るには祈るしかありません。、私を苦しめる心の問題を神様に打ち明けてお祈りしていると、苦しみも悲しみも消えていって、心が楽になります。祈る時間は次第に長くなりました。祈りで夜を明かす日も、一日また一日と増えていきました。そしてとうとう、、神様が私の祈りに答えてくださる日がやってきました。それは何物にも代えがたい貴重な体験で、その日は、私の生涯に最も大切な記憶として残る、夢にも忘れることのできない一日です。

 

 🌹十五歳になった年の復活節(イースター)を迎える週でした。その日も、いつもと同じように近くの猫頭山(ミョドウサン)に登って、夜を徹して祈りながら、神様に涙ですがりつきました。なにゆえこのように悲しみと絶望に満ちた世界をつくられたのか、全知全能の神がなぜこの世界を痛みの中に放置しておられるのか、悲惨な祖国のために私は何をしなければならないのか。私は涙を流して何度も何度も神様に尋ねました。

 🌹祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、イエス様が私の前に現れました。風のように忽然と現れたイエス様は、

「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨(みむね)に対する特別な使命を果たしなさい」と、語られたのです。

 

 🌹その日私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、その声をはっきりと聞きました。エス様が現れたとき、私の体はヤマナラシの木が震えるように激しく震えました。その場で今すぐ死んでしまうのではないかと思われるほどの恐れ、そして胸が張り裂けるような感激が一度に襲いました。エス様は、私がやるべきことをはっきりとお話になりました。苦しんでいる人類を救い、神様を喜ばしてあげなさい、という驚くべきみ言でした。

「私にはできません。どうやってそれをするのでしょうか。そんなにも重大な任務を私に下されるのですか」

 本当に恐ろしくてたまらず、何とか辞退しようとして、私はイエス様の服の裾をつかんで泣き続けました。

 

 

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