【平和を愛する世界人として】第三章・世界の中で最も中傷を浴びた人(6)

  ☆🐟☆🐟☆ 教会創設と受難・苦難よ、私たちを鍛えて欲しい ☆🐟☆🐟☆

 🌹人々は私が伝える新しい真理に、異端と言っては石を投げましたが、ユダヤ教の地で生まれたイエス様もまた、異端の罪を被せられて十字架に付けられました。それに比べれば、私の受けた迫害は、痛いことでも悔しいことでもありませんでした。体に加えられる苦痛はいくらでも我慢できます。ただ、私たちの教会に対する異端審問、こればかりは悔しくてなりませんでした。草創期から、私たちの教会を研究した神学者の中には、独創的で体系的な新しい神学であるとして、高く評価する人が多かったのです。にも関わらず、私たちをめぐる異端論争がかくも騒がしく広がったのは、神学的な問題というよりは、現実的な状況がそうさせたのでした。

 

 🌹私たちの信徒の大部分は、それまで通っていた既成キリスト教会を去って、私たちの教会に来た人たちです。まさにこの点が、既成キリスト教会から敵視された原因でした。梨花女子大の梁允永(ヤンユニョン)講師が警察の取り調べを受けた際、警察は金活蘭(キムファルラン)総長や多くのキリスト教牧師から、統一教会を批判する投書が届いたと明かしています。要するに、私たちが何か誤ったわけではなかったのです。既得権層の漠然とした恐れと危機感、そして度を越した教派主義が引き起こした、明らかな弾圧でした。

 

 🌹新しい教えを伝える私たちの教会には、さまざまな宗派の人が集まっていました。私がいくら「またどうして来たのか? すぐにあなたの教会に戻りなさい!」と言って、半ば脅迫するように追い出しても、彼らはすぐにまた戻ってきました。

 

 🌹私を求めて集まってくる彼らは、誰の言葉も聞きませんでした。学校の先生の言葉も聞かず、両親の言葉も聞きませんでした。ところが、私の言葉はよく聞きました。お金をあげるとか、ご飯を与えるわけでもないのに、私の言葉だけを信じて、私を捜し求めてきました。その理由は、私が彼らの行きづまった心に、道を開いてあげたからです。真理を知る前には、私もまた天を見てももどかしく、横の人を見てももどかしかったので、彼らの心は十分に理解できました。答えを得られずに苦しんでいた人生のすべての疑問が、神のみ言を悟ることによって、きれいさっぱりとなくなりました。私を求めてくる青年たちは、私が伝える話の中に、ふだん心に抱いていた問題への解答を初めて見い出したので、私と共に行く道が険しくつらいと分かっていても、私たちの教会に来たのです。

 

 🌹私は道を切り開く人です。崩壊した家庭を訪ね求め、氏族を訪ね、国を訪ね、世界を訪ねて、究極的にはそれらが神に立ち返っていく道を道案内する人です。💜私の元に来たのは、その事実を知って、私と一緒に神を求めていこうと決意した人ばかりです。それのどこがいけないというのか、およそ納得のいかない話です。神を求めただけなのに、世の中のありとあらゆる迫害と非難を受けなければなりませんでした。

 

 🌹異端騒動に巻き込まれる困難を味わっていた頃、私をさらに困らせたのが当時の妻でした。彼女は釜山で再開した後、実家の家族と一緒になって私を追いかけ回し、離婚をせがみました。教会を直ちにやめて家族三人で暮らすか、さもなければ離婚したいということでした。彼らは私が収監されていた西大門(ソデムン)刑務所までやって来て、離婚書類を押し込んで判を押せと脅迫しました。しかしながら、神の願う平和世界を築く上で結婚がいかに重要かを知る私は、彼らからどんな侮辱を受けてもじっと耐えました。

 

 🌹彼女は私たちの教会と信徒にも、言葉で言えないような乱行に及びました。むやみやたらと私の悪口を言うのはいくらでも我慢できましたが、教会と信徒にまで乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働くのは耐えがたいことでした。彼女が来るたびに、教会を訪れる信徒たちに悪口を浴びせかけ、教会の器物を壊し、教会にある物を勝手に持ち去ったばかりか、人糞を振りかけることまでしました。彼女が現れると礼拝をすることができないほどでした。最終的に、西大門(ソデムン)刑務所を出た後、彼らが準備した離婚状に、判を押さざるを得ませんでした。私の信念を守る間もなく、私の背中を押して離婚させたのです。

 

 🌹先妻のことを思うと、今も気の毒な気がします。彼女がそこまでするようになった背景には、キリスト教一家であった実家と既成教会の煽動(せんどう)がありました。結婚する前はしっかりした女性であったのに、がらりと変わってしまったことを考えると、世の中の偏見と固定観念の恐ろしさというものを再認識せざるを得ません。

 

 🌹離婚の痛みと異端として後ろ指をさされる悲しみを味わいましたが、私は少しも屈しませんでした。茨の道を踏み越えて行くこと、それはアダムとエバが犯した罪を贖罪(しょくざい)し、神の国に向かって行く私が、きちんとやり遂げなければならないことでした。もともと夜明け前が最も暗いといいます。💛私は神様にすがりついてお祈りすることで、暗闇に打ち勝ちました。しばらくは目を閉じる時間を除いて、一日のすべての時間を祈祷に捧げました。

 

 

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   🌳🌳🌳 神を知る者の道 🌳🌳🌳

 先生が生来の実力を伸ばして世俗的な分野に応用していったなら、偉大な実業家にでも、大政治家にでもなれるし、さまざまな分野で、大いなる名声と尊敬を勝ち得る人物になれるでしょう。しかし、それだけの脳力や実力をもっていながら、そういう方向に行かなかった先生です。そして、生涯において、先生より多く涙を流した者がいるでしょうか。苦難の道は避けられないものではなかったのですが、神様のために、無条件に、涙の道を選びました。人々から尊敬と賛美を受けつつ歓迎される道もありました。しかし先生は、神様ご自身がそういう立場におられないことをよく知っていたのです。

 

 では、先生は初めから何の個人的願望も、青年のもつ青空のごとき夢も希望も、持っていなかったかというと、そうではなく当然、大志を、夢を抱きながら、それらすべて自ら捨てて、いつの日かこういうふうに、という希望の扉のすべてを、自らの手で閉じて、人生の最も悲惨なる道を選んだのです。ただ悲しい神様の友になりたかったからです。

 なた方もまた、ある意味では同様に苦難を負って歩んでいるわけですが、それは過去において、先生が既に通過してきた道を引き継いでいるだけです。そして私たちがこのように自ら進んで苦難を引き継ぎ、それを負っていくのは、ただただ神を知ったがゆえであります。

 

 私たちを非難し迫害する人々が言うごとく、私たちに何か間違っていること、罪深いことがあるとしたら私たちには一つの罪があるといえるでしょう。それを罪と呼び得るなら、私たちが「神を知っている」という罪です。ただ神を知るがゆえに、私たちは迫害する者たちの非難の的となっているこれらのことのすべてを、なすべき使命として引き受けたのですから。

 

 しかし、過去において、私たちが何か悪ねることを世界にもたらしたでしょうか。神を知ることが、いかにして罪となり得るのでしょうか。💜神を知らないことのゆえにこそ、かくも混乱していく世界であり、教会は崩壊し、共産主義はますます、その勢力を伸ばしているのではないでしょうか。💛神を知る者の道がいかに悲惨であろと、神を知ることこそは我らの幸いであり、特権です。

              【御旨と世界・教会創立以前の内的教会史】より

           

 

 

【平和を愛する世界人として】第三章・世界の中で最も中傷を浴びた人(5)

 ☆🐟☆🐟☆ 教会創設と受難・焦げた木の枝にも新芽は生える ☆🐟☆🐟☆

 🌹1955年7月4日、私はソウルの中部警察署(治安局特殊情報課)に連行されました。屈辱的な扱いを受けたのに、思いの丈(たけ)をぶちまけて抗弁一つしようとせず、ぐっとこらえる私を見て、「意気地なし」と決めつける人もいましたが、♦これもまた私に与えられた道であると受け止めて、我慢に我慢を重ねました。それが私に与えられた天の御旨に向かっていく道だとすれば、仕方のないことだと考えました。いかなる困難があろうと私はその道を行かなければなりません。💛それがそのまま私の存在価値、生きる理由だったので、絶対に挫(くじ)けず、困難であればあるほど、誰の前であっても威風堂々と振る舞いました。

 

 🌹そう決意すると、警察には私を打ち負かす方法がありませんでした。調書を書く際には、まず私から、こう書きなさいと教えてやりました。

 「おい君、この言葉をなぜ書かないのか。そこにはこう書かなければならないのだ」

 と言って、初めて刑事は次に進みました。私が教えたとおりに調書を書いてみると、一つ一つの句や節に間違いはないのに、もともと彼らが意図した内容とは正反対になっていました。そのことに気づいた刑事は、腹を立てて調書をびりびりと破いてしまいました。

 

🌹私はソウル地方検察庁に送致され、西大門(ソデムン)刑務所に収監されました。手錠をかけられても、恥かしいとか寂しとか思うことはありませんでした。監獄生活が私の行く手を遮(さえぎ)る障害になるでしょうか。そんなことはあり得ないことです。憤怒(ふんぬ)の思いが沸き上がることはあっても、私を挫折させる罠とはなりませんでした。私としては、むしろ商売の元手を得た気分です。💜「監獄で消える私ではない。ここで死ぬことはできない。これは解放の世界に向けて跳躍するための踏み台にすぎない」と考えて、監獄生活に打ち勝ちました。

 

 🌹悪は滅び善が栄えるのが世の道理であり天の法です。泥まみれになっても、純粋で真実の心を失わなければ絶対に滅びません。手錠をかけられていく時、通り過ぎる女性たちが私を流し目で見て顔をしかめました。淫乱の似非(えせ)教祖だから見るのもおぞましいという表情でした。しかし、私は怯(おび)えることもなく恥だとも思いませんでした。彼らが汚い言葉で私と教会を罵(ののし)っても、私は決して動揺しませんでした。

 

 🌹しかしながら、そういう私であっても、痛みがなかったわけではありません。外では堂々としましたが、喉が締め付けられ、骨身に沁みて悲しかったことが一度や二度ではありませんでした。心が弱くなるたびに、「私はこんな監獄で死んでしまう男ではない。必ずもう一度立つ。きっと立って見せる」といって歯を食いしばりました。

 💜「すべての痛みを自分の中に隠したまま抱えていくのだ。教会のありとあらゆる重荷を、私が背負っていくのだ」と心に誓いました。

 

 🌹世間は、私が捕まって刑務所に行けば教会は潰れて、信徒はすぐに散り散りばらばらになっていくとばかり思っていましたが、そうはなりませんでした。収監されている間、毎日信徒たちの誰も彼もが私に会いにやって来ました。面会の順番をめぐって争うことさえありました。面会時間は朝の八時からです。それなのに彼らは、明け方から刑務所の塀の所に並んで待っていました。💛人々が私の悪口を言えば言うほど、私が寂しければ寂しいほど、私を慰労し、私のために涙を流す人も次第に多くなりました。

 

 🌹私は面会を必ずしも歓迎したわけではありません。「こんなに騒々しく来るとは。何しに来たのか」と叱ることも多かったのです。それでも彼らは、涙をぽろぽろ流しながら私に付いてきました。信仰とはそういうものであり、愛もまた同様です。私が言葉巧みに話すから私を慕うのではありません。💜私の心の深い所にある愛を知ったがゆえに慕うのです。彼らは私の真実の心を理解してくれました。💛手錠をかけられて裁判を受けに行くとき、私を捜してあちこち歩き回った信徒たちを死んでも忘れることはできません。被告席に座った私の姿を見て、しくしく泣いたその顔は、いつも私の記憶の中にあります。

 

 ☘「いくら人を狂わせようとしても、あれほど狂わせることができるだろうか」

 刑務所の看守らが、押し寄せる信徒たちを見て、そう言いました。

 「あの人は自分の夫でも妻でも子供でもないのに、なぜあんふうに真心を込めることができるのか」と感嘆した人もいましたし、「なんだ、文鮮明は独裁者で搾取する者だと聞いていたが、すべてでたらめだった」と考えを変えて、私たちの教会に来た人もいました。

 

 🌹結局、収監されて三ヶ月ぶりに無罪で釈放されました。私が釈放される日、刑務所長と課長らが丁重に見送ってくれました。彼らは三ヶ月後に私たちの教会の信者になっていました。彼らの心が私に向いた理由は簡単です。近くでじっと眺めていたので、噂とは全く違うことが分かったのです。世の中の騒がしいデマが、かえって伝道の手助けになったようでした。

 

 🌹捕まっていくときはマスコミと世間が大騒ぎしたのに、いざ無罪となって刑務所を出て行くときは静かなものでした。新聞に文鮮明教祖が無罪で釈放されたという記事が小さく載っただけだったのです。私に対する凶悪なデマは全国に騒々しいほど広まりましたが、その噂が丸ごと出鱈目だったという事実は静かに葬られました。信徒たちは「先生、腹が立って悔しくてたまりません」といって、私を見て泣きましたが、私はただ沈黙して彼らをなだめました。

 

 🌹デマによって後ろ指をさされ、弄(もてあそ)ばれた痛みを忘れることはできません。大勢の人が私を激しく責め立てて、三千里半島(韓国全土)に私の体の立つ場がなくなっても、一切を耐え忍んで乗り越えてきましたが、その悲しみは今も心の片隅に物寂しく残っています。雨風に曝(さら)され、火に焼かれても、絶対に燃えて死木(しぼく)になるわけにはいきませんでした。💛焦げた木の枝にも春が訪れるように、新芽は必ず生えてきます。強い信念を心に抱き、堂々と歩いて行けば、世の中も正しく私を理解してくれるでしょう。

 

 

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【平和を愛する世界人として】第三章・世界で最も中傷を浴びた人(4)

☆🐟☆🐟☆教会創設と受難・延世大学梨花女子大学の退学・罷免事件☆🐟☆🐟☆

 🌹危機感に襲われたを延世(ヨンセ)大学と梨花(イファ)女子大学は学校の歴史上、前代未聞の破天荒な選択をしました。梨花女子大学は金永雲(キムヨンウン)副教授をはじめ教授ら五人を免職処分にし、学生十四人を退学させたのです。その中には卒業を控えた学生も六人いました。延世大学でも教授一人が免職となり、二人の学生が退学させられました。

 

 🌹当時、延世大学の校牧(学校の牧師)は「学校に影響が及ばないように、卒業してからその教会に通ってもいいのではないか」と学生を懐柔しましたが、彼らは聞きませんでした。むしろ学生たちは、「学校には無神論者も多く、巫女の子供まで通っているのに、なぜ私たちが退学させられるのですか」と強く抗議したのです。当然の抗議でしたが、学校側は「私たちの学校は私立であり、キリスト教の学校なので、いくらでも任意に退学させられる」と繰り返すばかりで、頑として彼らを追い出しました。

 

 🌹この事実が世間に漏れると、新聞に「宗教の自由がある国で退学処分は問題がある」という趣旨の社説が載り、世の中が騒然としました。

 アメリカとカナダのメソジスト教会宣教部の援助を受けていた梨花女子大学は、異端であると噂の立った教会に行く学生が多くなれば、財政上の支援を受けるのに問題が生じるとして、危惧の念を覚えたようです。当時、梨花女子大学はキリスト教の布教に熱心で、週に三回あるチャペルの時間ごとに学生の出席率を確認して宣教本部に提出するほどでした。

 

 🌹学生を退学させ、教授らを追放すると、私たちに同情する世論も次第に大きくなっていきました。ところがそれを覆すために、口にするのも忍びないデマを流し始めました。もともとデマであればあるほど人々を惑わして引き付けるようになります。デマはまた異なったデマを生みながら、延世大学梨花女子大学の事件はとんでもない怪談話となって、一年以上にわたって私たちの教会を苦しめました。

 

 🌹私は事件の拡大を望みませんでした。無理に問題を起こしたくなかったのです。そのまま静かに信仰生活をすればいいのだから、あからさまに寄宿舎を飛び出してまで世の中を騒がせる必要はないと、学生を説得しました。しかし、「なぜ駄目だと言われるのですか。私も恵みを受けたいのです」と言って、逆に私を説得する者までいたのです。💜結局は十数名もの学生が学校から追い出されたのですから、私の心も穏やかであるはずががありませんでした。

 

 🌹卒業間近だった学生六人は、後に淑明(スクミョン女子大学に編入してかろうじで卒業しましたが、この事件のために、私の評判は悪化の一途を辿りました。延世大・梨花女子大事件が紙面を賑わしたことで、その時までに誕生していた新興宗教のありとあらゆる悪い噂が、全部私たちの仕業になってしまいました。「そうかもしれない」で始まったデマは、そのまま「その通りだ」となって、私たちに襲いかかってきました。

 

 🌹激しく叩かれて、私たちの教会は大きな痛手を被りました。無念で、腹も立ち、声を上げて抵抗したかったのですが、私は何の声も出さなかったし、彼らと争いもしませんでした。なぜなら、私たちの行く道はあまりにも険しく、目的の場所ははるか遠い先にあって、争っている時間はなかったのです。世間の誤解は時が経てば自然と解けるので、それほど気を遣うこともないと考えました。💜文鮮明は雷に打たれるべきだ」と公然とわめき散らす者たちや、私の死のために祈ろうというキリスト教牧師らの横暴も、見て見ぬふりをしました。

 

 🌹ところが、噂は静かになるどころか、日が経つにつれてますます増殖し、異常なほどの広がりを見せました。誰彼となく立ち上がって私を指さしました。興南肥料工場のむんむんした暑さの中でも一度も向う脛(すね)を出したことのない私でしたが、その私がよりによって裸になって踊りを踊るという噂まで出回ったのです。それからというもの、私たちの教会に入ってくる人たちは、「あの人は本当に裸になって踊りを踊るのだろうか」という疑いの眼差(まなざ)しで私を見つめました。💜この種の誤解を解消しようとすれば時間が必要です。そのことをよくよく承知している私は、一言の弁明もしませんでした。人を知ろうとしたら、その人と付き合ってみなければ本当のことは分かりません。私をろくに見もしないで、ああだこうだと口から出まかせを言って、何のためらいも感じない連中は、どうしようもない人たちであると思って、我慢しました。

 

 🌹延世大・梨花女子大事件によって、私たちの教会は完全に崩れ去る一歩手前まで追い詰められました。「似非宗教集団」というラベルが私の額にぴったりと貼られてしまったばかりか、既成キリスト教会が一つになって立ち上がり、私を処断せよと喚き立てました。

 

 🌹こうして、💜1955年7月4日、警察が私たちの教会に踏み込んできて、私を逮捕し、後日、弟子のキムウォンピルと劉孝永(ユヒョヨン)、劉孝敏(ユヒョミン)、劉孝元(ユヒョウオン)を捕らえていきました。既成キリスト教会の牧師と長老たちが、権力層と手を結んで私たちの教会を潰そうとしたのでした。投獄された四人は私の同志であり弟子でもあった者たちでした。さらに警察は、私の過去を隈なく洗って、兵役忌避(へいえききひ)という罪状を見つけてきました。北朝鮮では獄舎につながれ。南に下ってきた時はすでに入隊年齢を過ぎていた私に、「兵役法違反」の容疑を着せたのです。

       

 

      ☆🐟☆🐟☆ 信じて希望を訪ねていく生活 ☆🐟☆🐟☆

 信仰者は、より大きなことのために、公的な祈りを捧げなければなりません。そうして、これを横的に、どのように展開させるのでしょうか。それを空想することで終わるのではなく、行動の結実として表すために、創造的な冒険をしなさいと言うのです。ですから、信仰者は、現実の環境と不断に闘争して、理想を現実化させるための冒険の生活をしなければなりません。したがって、信仰生活は、最高の開拓者の生活であり、最高の闘争者の生活であり、最高の伝道者の生活です。そのような結果として現れてこそ、最高の勝利者になることができます。皆さんは、そのような信仰生活をしなければならないのです。

                 🌹【天聖経・第一章 信仰生活とは何か】より

 

【平和を愛する世界人として】第三章・世界で最も中傷を浴びた人(3)

☆🐟☆🐟☆ 教会創設と受難・教派でない教会、教会でもない教会 ☆🐟☆🐟☆

 

 🌹悪口を言われると長生きするといいますが、悪口を言われた分だけで生きるなら、私はこの先、あと百年は長生きできるでしょう。また、ご飯でお腹を満たす代わりに、ありとあらゆる悪口をのみ込んだので、私は世の中で最もお腹の膨れた人です。平壌に行って教会を始めたときに反対し、石を投げた既成キリスト教会が、釜山でもまた私に反対しました。教会を始めて以来、何から何まで言い争ってきました。「異端」「似非(えせ)は私の名前の前につける固有名詞でした。いえ、私の名前の「文鮮明」は異端、似非と同じ意味でした。💜異端、似非という接頭語のない、そのままの名前で呼ばれたことがないほどでした。

 

 🌹激しい迫害に抗しきれず、1953年には、私は釜山からソウルに上がってきました。翌年五月、奨忠壇(チャンチュンダン)公園に近い北鶴洞(プカクトン)バラックを借りて、世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。

 

 🌹「世界基督教」古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、神の願う理想世界を創っていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。連合は二つが集まったものですが、統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった統一教会は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。

 

 🌹とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません教会とは文字通り「教える会」です。教会は「宗(むね)となる教え」ですから、教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にも関わらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。

 

 🌹仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でないものと区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。💛国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。

 

 🌹しかしながら当時、現実的にはどうすることもできませんでした。そこで、正門の内側、敷地内に一歩入った建物の入り口に教会の看板を掲げました。少し高い所に掛ければ見栄(みば)えが良いのですが、家の軒が低くて看板を掛けるには不向きでした。結局、子供の背丈ぐらいの高さに看板を掛けておいたので、子供たちがそれを外して遊んで、そのまま二つに割ってしまったこともあります。私たちの教会の歴史的な看板ですから、捨てるわけにもいかず、針金でごちゃごちゃに結んで、釘で入り口にしっかりと打ち付けました。看板をそんなふうにぞんざいに扱ったせいか、私たちも世間から言うに言えないぞんざいな扱いを受けました。

 

 🌹玄関は頭を下げて入らなければなりませんでした。中も狭く、四方の部屋に六人が集まってお祈りをすれば、お互いの額がぶつかるほどでした。近所の人たちは看板を見て嘲笑(ちょうしょう)したものです。身をすくめて入っていく家の中で、♦一体どこの「世界」を語り、「統一」を夢見るのかと皮肉ったのです。名前に込められた意味を知ろうともせず、一方的に私たちを狂人扱いしました。しかし、そんなことは何でもないことでした。釜山では、もらい食いまでして命をつないだ身です。礼拝を捧げる部屋がある今は、何も恐れることはありませんせした。黒い染みが付いた米軍兵士のジャンパーを着て、黒のゴム靴を履いて歩きましたが、💜心は誰よりも堂々としていました。

 

 🌹教会に来る信徒たちは、お互いを「食口(シック)と呼び合います。当時の食口は誰もが愛に酔っていました。教会のことを思って、心の中で「行きたい」と思い続けると、どこにいても私がすることをすべて見聞きできました。💜神と通じることのできる内的な愛の電線でつながり、完全に一つになったのです。

 

 🌹食口が増えてきたので大学街で伝道を始めました。1950年代には、大学生といえば最高の知性を備えた人々でした。まず梨花(イファ)女子大学校と延世(ヨンセ)大学校の前で伝道を始めたところ、短期間のうちに私たちの教会に通う学生が増えていきました。その増え方が一人、二人というのではなく、一度に十人、二十人と幾何級数的に増える状況で、既成キリスト教会はもちろんのこと、私たちでさえも驚かざる得ませんでした。

 

 🌹大学街の伝道を始めて二ヵ月で、梨花女子大学と延世大学の学生を中心に教会員が爆発的に増えました。あまりに速い速度でした。春の突風がひゅうと吹き過ぎていったかのように、大学生の心が一瞬のうちに変わってしまいました。梨花女子大学の学生が一日に数十人づつ荷物をまとめてやって来ました。寄宿舎から出られないようにすると「どうして? どうして出られなくするのですか、そんなことをするなら私を殺してください!」と言って、寄宿舎の塀を平気で乗り越えて来ました。私が止めても聞き入れません。きれいな学校よりも足の臭いのする、私たちの教会の方がいいと言うので、どうしようもありませんでした。

 

 🌹心配した梨花女子大学の金活蘭(キムファルラン)総長は、社会事業学科の金永雲(キムヨンウン)副教授を私たちの教会に急派しました。カナダで研鑽(けんさん)を積んだ金副教授は、梨花女子大学で将来を嘱望(しょくぼう)された女性神学者でした。

 ♦統一教会の教理の弱点を探し出して、学生が私たちの教会に流れないようにしようと、わざわざ神学を専攻した金副教授を送ったのです。ところが、総長特使の資格で教会を訪れた金副教授は、私に会って一週間で熱心な信徒になってしまいました。金副教授まで私たちの教えを受け入れたので、梨花女子大学の他の教授や学生たちが、これまで以上に私たちを信頼し始めました。信徒が雪だるま式に増えたことは言うまでもありません。

 

 🌹事態が手の付けようのないほど拡大してくると、既成キリスト教会は例によって、私が教会員を横取りしていると攻撃を始めました。私は無念で残念な思いになりました。私は、私の説教だけを聞きなさいと強要したり、私たちの教会にだけ通いなさいと言ったりしたことはありません。前門から追い出せば後門から入ってくるし、門を閉めて鍵を掛ければ塀を乗り越えて入って来るのです。💛まったく私の力ではどうすることもできませんでした。

 こうなると、困惑したのは延世大学梨花女子大学でした。キリスト教財団の大学として、他の宗派の教会に教授や学生たちが集まっていくのを、黙って見過ごしにすることはできなかったのです。

 

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【平和を愛する世界人として】第三章・世界で最も中傷を浴びた人(2)

☆🐟☆🐟☆ 教会創設と受難・井戸の近くに住む気のふれた美男子 ☆🐟☆🐟☆ 

 🌹 ポムネッコルに土壁の家を建てて教会を始めた当初、私の話を聞いてくれる人はたったの三人だけでした。それでも、三人に話をするとは考えず、たとえ目に見えなくても数千、数万、いや人類全体が私の前にいると考えて話をしました。全世界に向けて爆発するような大音声(だいおんじょう)で、昼夜を分かたず私が悟った原理のみ言(ことば)を伝えました。

 

 🌹家の前に井戸が一つありました。その水を汲みに来る人たちの間に、土壁の家に気のふれたおかしな男が住んでいるという噂が生じました。格好は見すぼらしい、人気のない場所の幽霊が出そうな家から天下に号令するような叫び声が聞こえてきたので、人々はひそひそとそんな話をしたのです。天地がひっくり返って韓国が全世界を一度に統一するという気宇壮大な話をしたので、山を下りた周辺一帯に噂が広まったようでした。噂のせいか、井戸の近くに住む気のふれた男を見ようと、わざわざ訪ねてくる人も現れました。何々神学校に通う学生が一度に来たこともあったし、梨花(イファ)女子大の教授たちが訪ねてきたこともありました。恰幅(かっぷく)のいい健康そうな美男子という噂が付け加わって、「気のふれた美男子」を一目見ようと、遊びがてら山道を歩いて上がってくるおばさんたちもいました。

 

 🌹『原理原本』を脱稿した日、私は鉛筆を置いて、「これからは伝道する時なので、伝道できる聖徒を送ってください」と祈りを捧げた後、井戸端に出ました。五月十日のことです。春が深まり、綿を入れた韓服のズボンに古びたジャンパーを着ていたので汗がでました。その時、一人の若い女性が、額に浮かんだ汗をふきふき井戸の方に上がってくる姿が見えました。「神様は七年前から伝道師を多く愛されました」と話しかけたところ、彼女は目を丸くして驚きました。💜七年前とは、彼女が神様の仕事に一生を捧げようと決心したまさにその時だったからです。

 

 🌹「私は下の村の凡川(ポンチョン)教会の伝道師、姜賢實(カンヒョンシル)です。井戸の近くにおかしな青年が生活しているというので、伝道しに来ました」

 彼女が私に挨拶を終えた後、家に入った彼女は、むさ苦しい部屋の中を胡散臭さそうにじろりと見回すと、座り机の上を目を凝らして見つめ、尋ねました。

「どうして先のすり減った鉛筆があんなに多いのですか」

「今朝までかかって宇宙の原理を明らかにする本を書きました。そのみ言を聞かせるために神様が伝道師をここに送られたのでしょう」

「どういうことですか。私は、伝道すべき人がいるので、井戸の辺りに上がってみなさいというみ言を受けて来たのです」

 私は座布団を出して彼女に座るように勧め、私も座りました。私が座ったすぐそばで、泉の水がちょろちょろ流れていました。

「韓国の地は今後、全世界で山の峰と同じような役割を果たすでしょう。そして、世界中の人が韓国に生まれることができなかったことを悔しく思う時がくるでしょう」

 私の言葉に、彼女は呆気にとられた表情で私を眺めました。

「今後、イエス様はエリヤが洗礼ヨハネとして現れたように、肉親を持って韓国の地に来られます」

という私の言葉を聞くと、とうとう彼女は激しく怒り出しました。

「イエス様は行き場がなくて、仕方なくこの悲惨な韓国に来られるということですか」と言って、私に食ってかかったのです。

「黙示録をきちんと読んで仰っている言葉ですか。私は……」

「高麗神学校で勉強した人間だということでしょう?」

「いや、どうしてお分かりになったのですか?」

「私がそんなことも知らずに伝道師を待ちますか。私を伝道するために来たと仰るのですから、今日は一つ、私を教えてみてください」

 

 🌹姜賢實(カンヒョンヒルは神学校を勉強した人らしく、聖句をすらすらと語って私を攻撃しました。抜け目なくきっちり挑んでくるので、私も機関車のような声で一つ一つ忙しく対応しました。討論が長くなって外が暗くなると、私が夕飯を準備しました。おかずといっても萎びたキムチだけでしたが、水が音がちょろちょろする部屋に座ってご飯をしっかり食べ、終わるとまた討論を始めました。その後、何度も継続して訪ねてきては私と討論を繰り広げ、💛姜賢實はついに凡川(ポンチョン)教会を去って、私たちの教会の信徒になりました。

 

 🌹晩秋のある日、妻がポムネッコルの小屋に私を訪ねてきました。彼女は六歳の男の子の手を握っていました。米を買いに家を出て、平壌に上がっていったその年に生まれた息子です。いつの間にかすっかり大きくなっていました。私はとても息子の顔を正視できませんでいした。嬉しいと顔をさすって抱くこともできませんでした。何も話せないまま、私は微動だにせず立ち尽くしていました。

 

 🌹妻があえて語らなくても、戦争のさなかに彼ら母子が通過してきた苦労が目に浮かびました。事実、私はこの母と子がどこでどのように生きているかをすでに知っていました。しかし、まだ家族の面倒を見る時ではありませんでした結婚する前に堅い誓いで確認しように、もう少しだけ私を信じて待ってくれれば、喜んで彼らを捜し出すことができましたが、まだ時ではありませんでした。土壁の小屋は狭くおんぼろであっても、すでに私たちの教会でした。いろいろな信徒たちが私と一緒に食べ、生活し、み言を勉強していた場所なので、そこに妻子を住まわせることはできませんでした。小屋を見て回った妻は、寂しい心を抱えて山の斜面を下りて行きました。

 

 

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【平和を愛する世界人として】第三章・世界で最も中傷を浴びた人(1)

        ☆🐟☆🐟☆ 教会創設と受難・あなたは私の人生の師です ☆🐟☆🐟☆

 🌹臨津江(イムジンガン)を渡ってソウル、原州(ウォンジュ)、慶州キョンジュ)を経て釜山に到着した日が1951年1月27日でした。釜山の地は避難民でごった返していました。朝鮮八道(全国)の人が全部集まったかと思えるほどで、人が生活できる所は軒先までぎっしりと詰まっていて、お尻一つ入り込める隙間も残っていませんでした。仕方なく、夜は林の中に入って木の上で眠り、昼になるとご飯を求めて市内に下りていきました。

 

 🌹監獄で剃った頭はむくんでいました。内側を布団綿で継ぎ当てしたパジチョゴリ(男性用の韓服)はぼろぼろになり、染み付いた脂垢のせいで、雨に濡れると服の上を雨粒がころころと転がりました。靴も上の部分はくっついているだけで、下底はほとんど残っておらず、素足で歩くのと同じでした。どこから見てもどん底どん底、乞食の中の乞食です。働き口も所持金もなく、食べ物を得るのには物乞いするしかないという惨めな有様でした。

 

 🌹しかし、乞食をして回るときも、私はいつも堂々としていました。目ざといので、ぱっと見てご飯をくれそうにないと思うと、「われわれのように困った人を助けてこそ後で福を受けるのだ!」と言って、むしろ強気の態度でご飯をもらいました。そうやって手に入れたご飯を、日当たりの良い所に座って、十数人でぐるりと囲んで食べました。無一文で乞食の境遇にありながらも、お互い不思議と気持ちが通じ合うところがありました。

 

💛「おお、これは一体何年ぶりか?」

 🌹誰かが弾んだ声で叫ぶので振り返ってみると、日本留学時代に私の歌声に魅了されて友人となった巌徳紋(オムドンムン)でした。今は、世宗(セジョン)文化会館やロッテホテルなどを設計して、わが国有数の建築家になった人です。彼はみすぼらしい姿の私をぱっと抱きかかえると、有無を言わせず自分の家に連れて行きました。

「行こう。さあ、わが家に行こう」

 

 🌹結婚していた彼は、一間の部屋に住んでいました。狭い部屋の真ん中に布団包みを吊るして部屋を二つに分けると、彼は妻と幼い二人の子供を向こう側に行かせ、「さあ、あれからどうやって生きてきたのか話してくれ。どこでどうしているのかずっと気がかりだった。前は普通の親しい友人のようにしていたが、いつも君のことを友人以上の存在と思ってきた。心の中で一目(いちもく)も二目も置いていたことは知っていただろう?」というのでした。

 

 🌹私はその時まで、友人に自分の正直な心の内を明かしたことはありません。留学していた時、『聖書』を読んでいても、友人が来ればすぐに片づけてしまうほど、自分の内面を見せませんでした。巌徳紋(オムドンムン)の家で初めて洗いざらい話したのです。

 話は一夜で終わりませんでした。神と出会って新しく悟ったこと、三十八度線を越えて平壌に行き布教活動を始めたこと、興南監獄を生き延びたこと。全部話すのに三日三晩かかりました。話をすかっり聞き終えると、巌徳紋(オムドンムン)はその場ですくっと立ち上がって、私に丁寧なお辞儀をしました。

「おい、それはどういうことだ?」

 その手をつかんで引っ張りましたが、彼は頑として動きませんでした。

「これからは、あなたが私の人生の師です。このお辞儀は私が師に捧げる挨拶だから受け取ってください」

 💛それから後、巌徳紋は私の生涯の友であり、同時に弟子として、私を傍から見守ってくれました。

 

 🌹巌徳紋の一間の部屋を出てから、釜山の第四埠頭で夜間の重労働に就きました。仕事が済んで労賃を受け取ると、草梁(チョリャン)駅で小豆粥(あづきがゆ)を買って食べました。熱い小豆粥は、冷めないように、器はどれもこれもぼろ布でしっかりと包んであります。私は小豆粥を一つ買って食べながら、その器を一時間も抱きかかえていました。そうすると、埠頭で夜通し働いてカチカチに凍りついた体がとろりと溶けたのです。

 

 🌹その頃、草梁(チョリャン)の労働者用の宿舎に入ることができました。部屋が呆れるほど小さくて、対角線で横になっても壁に足が当たります。その後知り合いの家に泊めてもらい、その部屋で鉛筆を削り、心を尽くして『原理原本』の草稿を書きました。極貧の生活であろうと何の問題もありませんでした。たとえごみの中で暮らしたとしても、意志さえあればできないことはないのです。

 二十歳を過ぎたキムウォンピルも、仕事は何でもやりました。食道の従業員として働いたときは、お焦げの残飯を持ち帰って一緒に煮て食べたりしました。また、画才を生かして、米軍基地に就職して絵を描く仕事もしました。

 

 🌹そうした中、凡一洞(ボミルドン)のポムネッコルに上がって小屋を建てました。ポムネッコルは共同墓地の近所なので、岩と谷間以外何もない所です。谷間の上にも何もありません。斜めの崖で、そもそも自分の土地だと言えるような場所さえないので、まず斜面を水平に削って、その場所を固めて小屋の敷地を造りました。キムウォンピルと共に石を割り、土を掘って、砂利にして運びました。土と藁を混ぜて作った壁石で壁を積み、米軍部隊からもらったレーション箱(兵士の野戦食であるレーションを詰めた箱)の底を抜いて平らにして、屋根に被せて出来上がりです。部屋の床には黒のビニールを敷きました。

 

 🌹バラックでも、これほどのバラックはありませんでした。岩場に建てた家なので、部屋の真ん中に岩がぷくっと突き出ていました。その岩の後ろ側に置いた座り机とキムウォンピルの画架が調度品のすべてでした。雨が降れば部屋の中で泉が噴き出します。座った場所のすぐそばで、水がちょろちょろと音を立てて流れていく、とてもロマンティックな部屋でした。雨漏りがし、水が流れる冷え冷えとした部屋で寝ると、起きたときに鼻水がたくさん出ます。そうであっても、わずか一坪でもそうやって安心して横になれる場所があるという事実が、限りなく幸せに思いました。神の御旨に向かっていく道でしたから、劣悪な環境の中でも胸には希望があふれていました。

 

 🌹キムウォンピルが米軍基地に出勤するとき、私は山の下まで付いていき、夕方仕事を終えて戻ってくるときは迎えに出ます。それ以外の時間は眠らずに鉛筆を削り、机に座って『原理原本』を書きました。米の甕(かめ)には米はなくても、部屋に鉛筆はいっぱいありました。キムウォンピルは、私が執筆に専念できるように、横にいて物心両面から私を助けてくれました。一日中働いてきて疲れているはずなのに、「先生、先生!」と言っては私に付いて回ります。もともと寝不足な私が便所でよく眠ることを知ってからは、便所まで付いて来るほどでした。それだけではありません。「先生が本をお書きになるのを、少しでもお手伝いさせてください」といって、私の鉛筆代を稼ぐために、新しい仕事まで始めたのです。それが米軍兵士の注文に応じて肖像画を描く仕事でした。当時、米軍兵士の間では、故国に帰る前に妻や愛人の肖像画を描いておくことが流行していました。図画用紙ぐらいの大きさの画布に糊を塗って、木の枠に付けて絵を描きます。売値は一枚四ドルでした。

 

 🌹キムウォンピルのそのような真心がありがたくて、彼が絵を描くときは、私も横にいて黙々と助けました。彼が米軍基地に仕事に出かけると、画布にぱりっと糊を含ませ、木を切って枠を作ります。退勤してくるまでに、筆をすべて洗い、必要な絵具を買っておきました。そうしておいて、帰ってくると、糊を含ませた画布の切れ端に彼が4Bの鉛筆で絵を描きます。始めは一枚か二枚だけだったのが、いつの間にか有名になって、寝る間も惜しんで二十枚、三十枚と描きました。

 

 🌹仕事が増えるにつれて、それまで手伝いだけしていた私も、直接絵筆を執って彼を助けるようになりました。キムウォンピルが顔の輪郭を大まかに描いて、私が唇や服の色を塗るというように、共同して仕上げるのです。

 一緒に儲けたお金は、鉛筆と絵の道具を買うことを除いては、すべて教会のために使いました。神のみ言を文章にまとめることも重要ですが、もっと多くの人に神の御旨を知らせることが急がれていました。

 

 

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大宇宙と小宇宙 被造世界と人間の位置【天聖経・第一章 第五節より】

 ☆☆☆人は大宇宙の縮小体です。皆さんが小宇宙です。大宇宙は被造世界です☆☆☆  作用の源泉、力の源泉は神様です。「私」は大宇宙の前に立った一つの小宇宙として、大宇宙の絶え間ない力の源泉になるその力が、私の心に入ってくることにより、この大宇宙と相応する相対の価値を持っているのです。ですから人間は宇宙の花と言えるのです。

 

 🌐人間は万物の霊長だと言いますが、「霊長」という言葉は、必ず中心に立って全体の価値を身代わりすることができてこそ、語ることができるのです。優れた人であろうと、そうでない人であろうと、人間は世界的な中心になろうとする欲望があります。無限の価値をもった中心になりたいと思うのです。ある存在があれば、その存在の中の最高の存在になりたいと思い、また絶対的な中心があれば、その中心と一つになりたいと思うのです。このように、より優れた価値と関係を結びたいと思うのが人間の心です。それは本来、人間が歴史時代の全体価値を代表する中心的価値をもっているからです。

 

 🌐神様が人間を万物の霊長として立てるとき、天地のすべての環境を代表したその中心として立てました。そのため、すべての人間は、宇宙の中心になろうと主張できる自主権をもっているのです。それは、猿の世界やライオンの世界、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。

 

 🌐万物の根本となる霊長は神様です。人間には霊があります。人間はその霊の中の長であるため、結局、神様と直結させて霊長と言うのです。万物の霊長は、人間それ自体だけではなることができません。人間も被造物なのに、どのようにしたら万物の霊長になれるのかというのです。

 

 🌐被造物とは「相対的結果体」です。被造物としてだけでは原因に通じることができず、原因を占領することができません。被造物は原因によって占領されるようになっているのです。人間が「結果的存在」であるのは間違いありません。霊長の長は、霊の中で中心であるということです。この言葉は本来、神様と人間が一つになった関係を指して語る言葉なのです。

 

 🌐体のことで動物と人間が違うのは何でしょうか。食べるのも同じで、寝るのも同じです。服を着たりすることは違いますが、あとは同じだというのです。目と鼻の形、構造を見れば、大した違いがありません。人間は霊と肉が合わさって、一人の人間になっています。

 🌐しかし、肉的な生活、肉だけをもって生きる生活は、動物的な生活とあまり違いがありません。食べて寝て、また食べ物のために活動するのは同じなのですが、人間と動物の違いは、この宇宙世界において異なる価値をもたらす、貴い価値をもたらす者になるということです。貴い人というのは肉的な人ではなく、神霊的な人です。神霊的な方が貴いというのは、肉的なものとは異なるということです。違わなければならないのです。

 

 🌐猿と人間は根本が違います。猿はただ食べて寝て、子供を産むのが第一です。人間とは種(しゅ)が違うのです。人は自分を中心とするのではなく、他の人を中心として、より大きなものを中心として願いを持ちながら生きるようになっているのであって、自分よりも低いものを願いながら生きるようにはなっていません。次元が違うというのです。人間は生まれたときから神様をあがめてきました。神様をあがめない種族はいません。神様を考え、人間がより良くなれる宇宙を思いながら生きてきたというのです。

 

 🌐人は自分一人ではありません。宇宙共同の縁を総合した結果体として現れたのが人間です。このような人間には、万物を総合した形がすべて入っており、私たちの先祖から受け継いだ、数多くの先祖のすべての性質が投入されています。顔を自分の顔のように感じていますが、その顔になるまで数万年の歴史を経てきたというのです。数万年かけて先祖の血を受け継ぎ、そのようになったというのです。奇跡的な実態です。それだけでなく、その背後に天との縁が付いてきたために、その人が残ったというのです。天から見るとき、無限の曲折を経て今日の自分がつくられたというのです。万物のすべての関係的存在が投入され、投影された実体が自分だというのです。

  

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    🌺《是非読んで頂きたいお薦め著書》🌺

💛バイオテクノロジーの世界的権威者・筑波大学名誉教授村上和雄氏が、科学者の立場から宇宙と地球と生命の問題を、著書「生命の暗号」②[The Divine Gode of Life]:遺伝子はそれぞれの人の「生き方の設計図」である(サンマーク文庫)の中で、著書の締めくくりとして語られています。神秘的な世界を著書の言葉を一部お借りして、少し長くなりますが、そのままお伝えさせていただきます。☆☆☆

 

 🌏💛NASA元主任研究員で宇宙物理学者の桜井邦朋氏と対談する機会があったのですが、桜井氏は「宇宙誕生の最初の三分間が分からない」という興味深いことを述べられておりました。

 🌏ビックバンから三分経ったそれから後のことは現在に至るまで、宇宙がどう進化、発展してきたかについて、だいたい科学的に説明がつくまでになっている。しかし、ビックバン直後の三分間に何が起こったのか。それはいまだ明らかになっていないというのです。

 

 🌏ここでいう三分間とは、宇宙の起源の冒頭の一瞬ということの数字的な比喩(ひゆ)だと思いますが、宇宙、地その一瞬に何が生起したのかはまだ解明できていない。しかし、もし爆発のタイミングがほんのわずかでも狂っていれば、いまの球、生命はありえない。あるとしてもまったく違う形で存在することになっただろう。

 🌏タイミングだけでなく、その空白の三分間に生まれたであろうすべての物質や生起した出来事の、さじ加減がわずかでも異なっていたら、やはり現在のような宇宙や生命の形はなかった。そこにちり一つまじっていただけで地球は生まれなかったし、人類も誕生しなかったかもしれない。

 そういう意味のことを述べられて、そこに桜井さんは偶然ではなく、「宇宙の意思」を感じとるとおっしゃったのです。私はそれを聞いて、知的興味よりもむしろ感動を覚えました。

 

 🌏現在ある宇宙、そこに含まれるすべての天体と生きている全生命が織りな成す絶妙なバランス。それは偶然できあがったと考えるより、何か大きな意思によって創造されたものと解釈したほうがはるかに自然であり、辻褄も合う。それほど宇宙はあまりに絶妙に調和している――このことは、私が遺伝子という超ミクロな世界で日々実感していることと、まったく同じだからです。

 🌏たとえばⅮNAの二重らせんの美しさや遺伝子の働きの精巧さは、とても偶然の産物とは思えません。宇宙と遺伝子は、超マクロ超ミクロという正反対のものでありながら、そこにいずれも偉大な力を想定したくなるほど精巧な仕組み、絶妙な調和を共通して感じることができるのです。

 

 🌏ときとして、その絶妙さが宇宙と遺伝子という両極端のものに現れているのには、何か意味があるのではないかと思うこともあります。その二つは極大と極小で「意味ある相似形」を描いている。対外宇宙と体内宇宙は呼応しながらつながっており、その起源も同じ、ある同一の意思から発せられたものではないか。その意思を発した主体こそが宇宙と生命の源であるサムシング・グレート(偉大なる何ものか)」である。そんなふうに思えるのです。

 🌏そしてもし、宇宙と遺伝子の起源が同じものであるなら、遺伝子は、すなわち私たちの生命は宇宙の意思や自然の摂理によって生まれ、生かされていることになるのです。

 

 🌏いま急速な勢いでゲノムが解読され、遺伝子の働きが解明されつつあります。生命の暗号の解読によって、人間は「生命とは何か」という生命自身にとって最大の疑問を解く端緒をつかみ始めているのです。

 🌏いつになるかわかりませんが、その全部の暗号を読み終えたとき、遺伝子の不思議や宇宙の起源の秘密も含めて、生命に関する解答の一端を私たちは知ることになるはずです。生命とは何か。生命の本質は何で、究極の姿はどうなっているか。それはどこから来て、どこへ行くのか。生の目的は何か。死の意味は何か。そういう生命の原理の一部が明らかになるはずだと期待されています。

 💛同時に、その生命の設計図の中に「サムシング・グレート(偉大なる何ものか)」の「指紋」を発見するとともに、その意思の一部も、私たちは読み取ることになるかもしれません。その日をできるだけ早く到来させるために、私も当事者の一人として、常に感動を忘れずに研究を続けていきたいと考えています。

                   

 

 

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