【平和を愛する世界人として】第二章・神の召命と艱難(2)

  ☆☆☆ 胸が痛ければ痛いほどひたむきに愛せ ☆☆☆

 私は非常に激しく混乱しました。両親にも打ち明けられず、かといって、心の中にぎゅっとしまい込んでおくわけにもいかない大きな秘密を抱えてしまったのです。どうしていいか分からず、途方に暮れました。明らかなことは、私が天から特別な任務を託されたという事実です。しかし、一人でやり遂げるにはあまりにも大きな責任でした。しかもその内容たるや驚くべきものがありました。到底自分には果たし得ないと思って、不安と恐怖におののく毎日でした。混乱した心を何とかしようと、以前にも増して祈りにすがりつきましたが、それすら役に立ちません。いくら努力しようとも、イエス様に会った記憶から少しも逃れられなかったのです。

💛泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、私はその恐れを詩に書きました。

 

  人を疑えば、苦しみを覚え

  人を裁けば、耐えがたくなり

 

  人を憎めば、もはや私に存在価値はない

  しかし、信じてはだまされ

  今宵、手のひらに頭(こうべ)を埋(うず)めて、苦痛と悲しみに震える私

 

  間違っていたのか、そうだ、私は間違っていた

  だまされても、信じなければ

  裏切られても、赦(ゆる)さなければ

 

  私を憎む者までも、ひたむきに愛そう

 

  涙をふいて、微笑んで迎えるのだ

  だますことしか知らない者を

  裏切っても、悔悟(かいご)を知らない者を

 

  おお主よ! 愛の痛みよ!

  私のこの苦痛に目を留めてください

  疼(うず)くこの胸に主のみ手を当ててください

  底知れぬ苦痛に心臓が張り裂けそうだ

 

  されど 

  裏切った者らを愛したとき

  私は勝利を勝ち取った

 

  もし、あなたも私のように愛するなら

  あなたに栄光の王冠を授けよう 

 

👑15歳の時、この「栄光の冠」は2002年、世界詩コンテスト最優秀賞受賞作品です。

 

🌹エス様に会った後、私の人生は完全に変わりました。エス様の悲しい顔が私の胸中に烙印のように刻まれ、他の考え、他の心は全く浮かびませんでした。その日を境に、私は神様のみ言に縛られてしまいました。ある時は、果てしない暗闇が私を取り囲み、息つく暇(いとま)さえないほどの苦痛が押し寄せたし、またある時は、昇る朝日を迎えるような喜びが心の中に満ち溢れました。そういう毎日が繰り返されて、私は次第に深い祈りの世界に入っていきました。エス様が直接教えてくださる新しい真理のみ言を胸に抱いて、神様に完全に捕らえられて、以前とは全く異なる人生を歩むようになりました。考えることが山ほどあって、次第に口数の少ない少年になったのです。

 

🌹神の道を行く人は、常に全力で事に当たり、心を尽くして、その目的地に向かっていくべきです。この道には執念が必要です。生来、頑固一徹な私は、元から執念の塊です。生まれつきの性質そのままに、苦難にぶつかっても執念で克服して、私に与えられた道を進んできました。試練に遭って翻弄されるたびに私を深いところで支えてくれたのは、「神様から直接、み言を聞いた」という厳粛な事実でした。しかし、一度しかない青春をかけてその道を選ぶことが、たやすいことだったでしょうか。逃げたい気持ちになったこともあります。

 

🌹知恵ある人は、どんな困難でも、未来への希望を抱いて黙々と歩いていきますが、愚かな人は、目の前の幸福のために未来を無駄に投げ捨ててしまいます。私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。神が願う道を行くために、一つしかない命を喜んで捧げました。逃げようとしても逃げ場がなくて、私が行く道はただその道以外にありませんでした。

 

🌹ところで、神はなぜ私を呼ばれたのでしょうか。九十歳(数え)になった今も、毎日、神が私を呼ばれたのかを考えます。この世の中の無数の人の中から、よりによってなぜ私を選ばれたのか、容貌が優れているとか、人格が素晴らしいとか、信念が強いとか、そういうことではありません。私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったとも言えます。いつ、いかなる場所でも、最も大切なものは愛です。神は、愛の心をもって生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです。☘私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。この年になっても、🌹私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。

 

🌹私は自分では何も分からなかったので、すべてのことを神に尋ねました。「神様、本当にいらっしゃいますか」と尋ねて、神が確かに実在することを知りました。「神様にも願いがありますか」と尋ねて、神にも願いがあるという事実を知りました。「神様、私が必要ですか」と尋ねて、こんな私でも神に用いられるところがあると知りました。

 

🌹私の祈りと至誠が天に届く日には、イエス様は必ず現れ、特別なみ言を伝えてくださいました。切実に知りたいと願えば、エス様はいつでも穏和な顔で真理の答えをくださいました。エス様のみ言は鋭い矢のように、一直線に私の心深くに突き刺さりました。それは単なるみ言ではなく、新しい世界を開く啓示のみ言、宇宙創造の真実を明かすみ言でした。エス様は風が傍らを通り過ぎるようにお話しになりましたが、私はそのみ言を胸に抱いて、木の根っこを抜く思いで切実な祈りを捧げ、宇宙の根本と世の中の原理を少しずつ悟っていきました。

 

🌹その年の夏休み、私は祖国巡礼の旅に出ました。一文無しでもらい食いをして、運が良ければトラックに乗せてもらいながら、全国津々浦々を巡ってみました。祖国はどこに行っても涙の坩堝(るつぼ)でした。飢えた民衆の苦痛に満ちた息遣いが絶えることはなく、彼らの凄絶(せいぜつ)な悔恨(かいこん)の涙が川のように流れました。

「一日も早くこの悲惨な歴史を終わらせなければ、もうこれ以上、わが民族を悲しみと絶望に陥るままにしておいてはならない。何としてでも日本にも行き、アメリカにも行って、韓民族の偉大さを世界に知らせる方法を探し求めなければならない」

 祖国巡礼を通して、私はもう一つの新たな課題を得て、今後の志をさらにしっかりと立てました。

 「必ず民族を救い、神様の平和をこの地に成し遂げます」

🌹両拳(こぶし)をぎゅっと握るや心も引き締まり、進む道がはっきりと見えました。

 

 

        ☆☆☆ 神様の召命 ☆☆☆

 神様は、私たち個人を尋ねてこられますが、その個人を中心として家庭と社会、ひいては世界まで取り戻すことを願われます。ところが、この道がまだ塞がっています。天の摂理歴史路程は、「私」を求めて地にまで下りてきました。ですから、私を中心として再び天の方向に進まなければならないのですが、その道が塞がっています。

 それだけでなく、善を追及する人たちは、今までこの世俗的なあらゆるものを切って、否定しながら、失った本然のものを神様にみ前に再び探したてることができる道を探そうとしましたが、このような道は限界にきています。

 今、皆さんが感じなければならないことは、神様の悲しみです。イエス様の悲しい心情を体恤(たいじゅつ)しなければなりません。そして、神様は六千年という長い歳月を、悲しみの中であえぎながら、皆さん一人を求めて来られたという事実を、実態的に感じなければならないのです。

                 【天聖経・第四章 第一節・神の召命】より