【平和を愛する世界人として】第二章・神の召命と艱難(8)

    ☆☆☆ 拒否できない命令 ☆☆☆

 🌹光復の直後、韓国の実情は言うに言えない混乱状態でした。お金があっても米を手に入れることは簡単ではありませんでした。とうとう家に米がなくなったので買っておいた米を取りに黄海道(フアンヘド)の白川(ペクチョン)に向かいました。その途中のことです。

 💛三十八度線を越えて行きなさい! 北の方にいる神様に仕える人々を取り戻しなさい!という啓示が下りました。

 🌹私は即座に、三十八度線を越えて平壌ピョンヤンに向かいました。長男が生まれて二月しか経っていない時でした。今か今かと私を待つ妻が心配でしたが、家に戻る余裕はありませんでした。神のみ言(ことば)は厳しいものです。み言を受けたら従順に即応しなければなりません。創世記から黙示録まで数十回も線を引いて読み、ごま粒のようなメモ書きで真っ黒になったぼろぼろの『聖書』一冊だけを携えて、私は三十八度線を越えていきました。

 

 🌹その時はもう共産党から逃れようと、北から避難民が続々と南下してきていました。特に共産党が宗教を迫害したので、多くのキリスト教徒が宗教の自由を求めて南側に下って行ったのです。宗教はアヘンであるとして、民衆に宗教を持たせないようにしたのが共産党です。そのような地に、私は天の召命を受けて向かったのです。牧師であれば嫌う共産党の支配する世界に、私は自分の足で歩いて入っていきました。

 

 🌹避難民が増えるや、北側の警戒が物々しくなって、三十八度線を越えることすら容易ではありませんでした。しかし、百二十里(約四十八キロメートル)の道を歩いて三十八度線を越え、さらに平壌に到着する時まで、なぜこの険難の道を行かなければならないかと、私は一度たりとも疑いませんでした。

 

 🌹1946年6月6日、平壌に到着しました。もともと平壌「東洋のエルサレム」と呼ばれたようにキリスト教が深く根を下ろしているところです。私は平壌の西門に近い景昌里キョンチャンニ)のナチェソブ氏の家で伝道生活を始めました。その人は南にいたときから知っていた教会の執事です。

 

 🌹最初の日、近くの子どもたちを集めて世話をすることから始めました。子供たちが来れば、『聖書』のみ言(ことば)を付け加えた童話を聞かせて一緒に遊びました。子供であっても必ず敬語を使い、真心を込めて世話をしました。そうしながら、私が伝えたい新しいみ言を誰かが聞きに来るだろうと待ったのです。ある時は一日中門の外を眺めて、人を懐かしく思ったりもしました。そうやってじっと待っていると、やがて篤実な信仰心を持った人たちが私を訪ねって来るようになりました。その人たちを迎えて、私は夜通し新しいみ言を教えました。訪ねて来る人には、三歳の子供であろうと腰の曲がった目の遠い老人であろうと、愛の心で敬拝し、天に対するように仕えました。年取ったお爺さん、お婆さんが訪ねてきても、夜遅くまで話をしました。なんだ老人で「嫌だな」という思いをもったことはありません。人は誰でも貴いのです。人が貴いことにおいて老若男女に差はありません。

 

 🌹二十六歳の若々しい青年がローマ人への手紙やヨハネの黙示録を教えるのですが、その話が今まで聞いたことのない内容なので、志のある者が一人、二人と集まり始めました。毎日のように来ては喋ることもなく、ただ話を聞いていった器量の良い青年であるキムウオンピルは、そうやって私の一番の弟子になりました。私は、平壌師範学校を卒業し教鞭を執っていた彼と二人で交代でご飯を炊いて食べ、師弟の絆を深めました。

 

 🌹私は一度『聖書』の講義を始めると。信徒たちがやることがあるといって先に席を立たない限り休みませんでした。精一杯の情熱を注いで教えたので、体中から汗が滝のように流れました。みんなに分からないように外に出て服を脱いで絞ると、服から水がぽたぽたと落ちます。暑い夏だけではありません。雪の降る厳寒の季節でもそうでした。そうやって全身全霊を込めて教えました。

 

 🌹礼拝を捧げるときは必ずきれいな白い服を着ました。讃美歌を数十回繰り返して歌い、情熱的な礼拝を捧げました。参加者が感動にあふれて涙を流すので、💛世間は私たちの教会を指して「泣く教会」とも呼んだのです。

 

 🌹自ら悟って体験した話から神のみ言を説いたせいか、今まで理解できずに疑問だった部分がすっきりと解決されたと言って、多くの人たちから喜ばれました。大きな教会に通っていた人の中には、私の説教を聞いて、これまで通っていた教会をやめて私たちの教会に来る人もいました。平壌で一番有名なチャンデヒョン教会の中核メンバー十五人が一度に私を訪ねてきて、教会の長老たちが激しく抗議してきたこともあります。

 大きな教会に通う信徒たちがどんどん抜け出してくると、既成キリスト教会の牧師たちは、私を妬んで警察に告発するようになりました。ただでさえ宗教を目の上のこぶと見て一掃しようと狙っていた共産党当局は、格好の口実を得て私を捕らえにかかりました。

 

 🌹1946年は8月11日私は「南からきたスパイ」の汚名を着せられて、平壌ピョンヤンの大同保安署に連行されました。南の李承晩(イスンマン)が半島北部の政権に欲を出して密かに北に派遣したスパイだと決めつけたのです。

 🌹監獄暮らしといっても特に恐ろしくはありませんでした。経験があったからでしょうか。その上また、私は監房長と親しくなるのが上手です。二言三言話をすれば、どんな監房長でもすぐに友達になってしまいます。誰とでも友達になれるし、愛する心があれば誰でも心を開くようになっています。

 

 🌹数日経つと、一番隅っこに座っている私を、監房長が上の場所に引っ張ってくれました。便器のそばのとても狭い隅っここそ私が一番好む場所なのに、しきりともっと良い場所に座れと言ってきます。いくら嫌だと言ってもどうしようもないことでした。

 監房長と親しくなったら、今度は監房の住人を一人一人調べてみます。人の顔はその人の何もかもを物語ってくれます。「ああ、あなたはこうだからこのような人であり、あなたはああだからあのような人である」と言って話しを始めれば、誰もが驚きました。初めて会った私が心の中を言い当てるので、内心は嫌っても認めざるを得ません。

 誰であっても心を開いて愛情をもって接するので、監房でも友だちができ、殺人犯とも親しくなりました。やるせない監獄暮らしだったとはいえ、私には私なりに意味のある鍛錬期間でした。この世の中に意味のない試練はありません。

 

 🌹監獄にいる間、罪を自白せよと数限りなく殴られました。しかし、血を吐いて倒れ、息が絶えそうになる瞬間にも、気を失わずに耐え忍びました。腰が折れたかと思うほどの激しい苦痛が襲うと、「天のお父様、私をちょっと助けてください」という祈りが自然と出てきます。そうすると再び気を取り直して、「お父様、心配なさらないでください。文鮮明はまだ死にません。こんな風にみすぼらしく死んだりしません」と言って堂々と振る舞いました。そうです。私はまだ死ぬ時ではありませんでした。私の前には完遂しなければならないことが山のようにあったし、私にはそれをやり遂げる使命がありました。拷問ごときに屈服して同情を買う程度の意気地なしの私ではありません。

 

 🌹今も私の体にはその時できた傷跡がいくつか残っています。肉が削げ、血が流れた箇所は、今はもう新しい肉が付きましたが、その日味わった激しい苦痛は、傷跡の中にそっくりそのまま残っています。私は、その日の苦痛が染みついた傷痕を眺めて誓ったこともあるのです。

💛「この傷を持ったおまえは必ず勝利しなければならない」

 

 ソ連の調査官まで出てきて私を糾弾しましたが、罪がないのでどうしようもありません。結局、およそ三カ月後の1946年11月21日、捨てられるように釈放されました。拷問であまりにも多くの血を流して命の危険がある状態でしたが、信徒たちがよく世話をしてくれました。無条件に尽くして私に生命を与えてくれました。

 

 🌹こうして、私はもう一度気力を振り絞って、教会の仕事を始めました。教勢が急に大きくなったのは、それから一年を過ぎたころです。ところが、既成キリスト教会は、そのような私たちを放ってはおきませんでした。既成教会の信徒たちが、より一層私たち教会に集まるようになると、反対する既成キリスト教会の牧師八十人以上が、共産党当局に投書して、私を告発しました。これを受けて私は、再度共産党によって連行されたのです。

 

 🌹平壌内務署に捕縛された日が、1948年2月22日でした。鎖を付けて引かれていき、四日目に頭を刈られました。その時に私の頭を刈った人の姿までありありと覚えています。教会を切り盛りしていた間に長く伸びた髪の毛が、ぽとりと床に落ちました。

 

 🌹捕縛されるや否や、またしても鋭い拷問が開始されました。拷問を受けて倒れるたびに、「私が受ける鞭は民族のために受けるのだ。私が流す涙は民族の痛みを代表して流すのだ」という思いで耐え忍びました。極度の苦痛で気を失いそうになると、間違いなく神様の声が聞こえました。

 

 🌹公判は四月七日でした。本来、拘禁されて満四十日になる四月三日が公判の予定でしたが、七日に延期されたのです。公判廷には北で有名な牧師たちがぞろぞろと集まってきて、私にありとあらゆる悪口を浴びせました。「宗教はアヘンだ」という共産党も私を嘲笑しました。公判を見に来た教会の信徒たちは、弁護側の席でもの悲しく泣いていました。まるで子供や夫が世を去ってしまったかのように哀切な祈りを捧げていました。

 

 🌹しかし、私は涙を流しませんでした。私を見て身悶えして泣いてくれる信徒たちがいるので、天の道を行く者として少しも寂しくなかったのです。「私は不幸な人ではない。だから泣いてはならない」と思いました。判決を受けて公判廷を後にする際、彼らに向かって手錠のかかった手を振ると、手錠からチャランチャランと音がしました。その音がちょうど鐘の音のようでした。私はその日すぐに平壌刑務所に収監されました。

 

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