☘【平和を愛する世界人として・文鮮明師自叙伝・天聖経】☘
第一章 幼少時代 草むらの虫と交わす宇宙の話
森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。 そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の境界がなくなる瞬間、奧妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。
私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになれる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に解放したところに自然が入って留まるのですから、事実は無我を超えた状態です。その状態で、自然が話かける音を聞くのです。松の木が出す音、草むらの虫が発する音・・・。
そうやって私たちは友達になります。
私は、その村にどんな心性を持った人が住んでいるか、会って見なくても知ることができます。村の野原に出て一晩過ごし、田畑で育つ穀物の言葉に耳を傾ければ、自ずと分かるようになります。穀物が嘆息するのか喜ぶのかを見れば、村人の人となりを知ることができるのです。
韓国と米国、さらには北朝鮮で何度か監獄に入っても、他の人のように寂しいとかつらいとか思わなかったのも、すべてその場所で風の音を聞くことができ、共に暮らす虫たちと会話を交わすことができたからです。
「虫たちと一体どんな話をするんだ!」と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒の一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は綿密に関連して相互につながっています。
大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。
私は幼いころから山や野原を飛び回って、自然の音と交差する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が一つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。
自然は、私が困難にぶつかるたびに、私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに、私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは、自然と親しむ機会すらありませんが、感性を育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。
春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交換を楽しめる人であってこそ正しい人格が身につくと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも尊いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は、神ご自身を現す象徴的な存在であり、人は神に似た実態的な存在です。万物を愛することのできる人だけが、神を愛することができます。
20世紀の最大の科学者・アイシュタインはご自身の「思考法」を問われたとき、「私は100%イメージによって考えます」と答えています。数学的なもの、倫理的なものを超えた直観力、インスピレーションなどが科学に必要であるといっていっているのではないかと思います。
💛ありがとうございました。
☆☆☆第一節・万物から学ぶ☆☆☆
神様は愛ゆえに創造をしました。初めから終わりまで、ご自身のすべてを注ぎ込んだのです。ですから神様は、「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終わりである」(黙示録21・6)と言ったのです。それは、愛を中心とした所でのみ可能です。愛の中、そこではすべてを包括できます。神様も、愛ゆえに宇宙を造り、愛ゆえに生きるというのです。愛の対象が必要だったので創造したのです。そして、人間をモデルとし、東西南北、四方に広げたのです。ですから、すべての万物、すなわち鉱物、植物、動物界、そのすべてがペアでできています。ペア・システムを中心とした万物は、理想的な愛を探し求めていく人間にとって教材です。虫を見ても、雄と雌が愛を交わすのです。すべて教材です。
【天聖経・第一節万物から学ぶ】より