日本的なものを超えて [2]

    ☘【平和を愛する世界人として・文鮮明師自叙伝と天聖経】

 

 文鮮明師は日本の植民地時代、1920年陰暦1月6日現在の北朝鮮平安北道安州郡にて、父・文慶裕氏と母・金慶継氏のご次男としてお生まれになりました。

 10歳のころ、牧師である潤國大叔父の影響で一家は全員キリスト教に改宗します。ご自身も猫頭山の徳興長老教会に入教し、礼拝を一度も欠かすことがなく、熱心な信仰生活を送ります。

 前の年、朝鮮国内で三・一独立運動が起こったこともあって、日本の統制はかなり厳しくなっていた時代です。ご自身が受けられた日本の警察による熾烈な拷問のことも生々しく書かれています。

 

 そもそも日韓関係の悪化する要素の一つとなっている、日本にとっては暗く苦い過去の歴史である、日本の植民地時代のことを書かれた書物を、わざわざ日本語に翻訳して出版することを許可をされた理由が何なのか? これは日本に対する怨みなのか?憎しみなのか?報復なのか?といった疑問が浮かんできます。

 その真意を知りたくて自分なりに考察してみようとしたのです。そのこともブログを作るキッカケにもなったのです。

 

 当時日本は厳格な帝国主義「掟」によって植民地支配を拡大させていきました。強引に進める‘力’の支配は「村社会」で作られた独特の体制です。暴走する軍部の圧力を抑えることができず、‘力’による支配の、極限に至る人間の狂気、残忍性などを顕現化させることによって、抑圧された「村社会」「掟」に生きる、ありのままの人間の姿を認識して欲しかったのだと思います。

 

 それは過去の過ちを責めるのではなく、同じ過ちを繰り返さないためにも、そして何よりも、日本人自身がしっかりと受け留め「気づき」「知る」ことによって、新たに生まれ変わることを望んでいたからに他ならないと思います。

 

 つまり文鮮明師が日本人に望んだことは「村社会的気質」から脱して、💛【原理講論・創造原理71ページ〜、人間の霊性(心)はその作用において、の機能を発揮し、肉身はその命令に感応して、の価値を追及する神霊と真理に導かれた美しい日本人の姿】だったと思います。さらにそのことによって、日本人の日本人にしかない素晴らしいポテンシャルを最大限に引き出す要因となっていくことをご存じだったのです。

 

 💛《日本を超えたもの、日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです》その言葉を実現させるため、実際に日本の若い青年たちを海外に送り、世界に通用する日本人として訓練されていかれたことは事実です。

 その若駒たちが世界的に活躍していけば、自然に日本は本当の意味でのグロ-バルリーダーの位置に立つことになっていくのです。

 

 

  ☆☆☆第一章・平和と神様☆☆☆

人類は、真の真理、不変の真理を求めてきました。それとともに、愛と理想と幸福と平和と自由を追及することを継続しています。いくら混乱した世の中で、いくら絶望の世界だとしても、私たちがこのような希望を諦めないまま、そのような真の愛や理想や幸福や平和が存在することを願う心をもっていることは、間違いない事実です。

 それでは、ここで問題になることは、神様はどうなさるのかということです。神様も真の愛の世界、真の理想の世界、真の幸福と平和と自由の世界を追及せざるを得ません。それは、人間が追及するのも、神様が追及するのも同じです。それでは、「愛」や「理想」や「幸福」や「平和」というそれらの言葉は、独りを対象として語る言葉でしょうか、でなければ相対的関係で成立する言葉でしょうか。その言葉は独りで成立するものではありません。独りで愛が成立しますか。独りでは幸福や平和というものはあり得ません。このような言葉は相対的関係で成立するのです。

                      【天聖経・第一章・平和と神様】より

父の背中におぶさって学んだ平和

【平和を愛する世界人として・文鮮明師自叙伝】

 第一章 幼少時代・父の背中におぶさって学んだ平和

 

 私は生涯一つのことだけ考えて生きてきました。戦争と争いがなく世界の人たちが愛を分かち合う世界、一言でいえば、平和な世界をつくることが私の幼い頃からの夢でした。そのように言うと、「幼い時から平和を考えていたなんて、どうしてそんなことが?」と反問する人がいるかもしれません。しかし、平和な世界を夢見ることがそんな途方もないことでしょうか。

 

 私が生まれた1920年は、日本が我が国を強制的に占領していた時代でした。1945年の解放後も、朝鮮戦争通貨危機をはじめ、手に負えないほどの混乱を何度も経験し、この地は平和からほど遠い歳月を送らなければなりませんでした。このような痛みと混乱はわが国だけが経験したことではありません。二度の世界大戦やベトナム戦争中東戦争などに明らかのように、人々は絶えず互いに憎しみ会って、同じ人間だというの”敵゛に銃の標準を合わせ、彼らに向けて爆弾を爆発させました。肉が裂かれ、骨が砕ける凄惨な戦場を体験したものにとって、平和というのは空想に等しい荒唐無稽なことであったかもしれません。しかし、平和を実現することは決して難しいことではありません。私を取り巻く空気、自然環境、そして人々から、私たちは容易に平和を学ぶことができます。

 

 野原をわが家のように思って暮らした幼い頃、私は朝ごはん一杯をさっと平らげては外に飛び出して、一日中、山に分け入り、川辺を歩き回って過ごしました。鳥や動植物の宝庫である森の中を駆けづり回り、草や実を取って食べて見ると、それだけで一日おなかがすくのも忘れるほどでした。幼い心にも、森の中にさえ入っていけば体と心が平安になると感じていました。

 

 山で飛び回っているうちに、そのまま眠ってしまうこともよくあります。そんな時は、父が森の中まで私を探しに来ました。「ヨンミョン! ヨンミョン!」という父の声が遠くから聞こえてくると、眠りながらも自然と笑みがこぼれ、心が弾みました。幼少の頃の私の名前は龍明です。私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、寝ているふりをして父に背負われていった気分、何の心配もなく心がすっと安心できる気分、それこそがまさしく平和でした。そのように父の背中に負われて平和を学びました。

     

 私は理念と宗教の違いゆえに相手を憎み、互いに敵となった国同士の間に、平和の橋を架ける仕事に生涯を捧げました。イスラームイスラム教)とキリスト教が融和するように交流の場を設けたり、イラクをめぐって対立する米ソの意見を調整したり、北朝鮮と韓国の和解に尽力したりしました。名誉や金欲しさでしたのではありません。物心ついて以来、今に至るまでの私の人生のテーマはただ一つ、世界が一つになって平和に暮らすことです。他のことは眼中にありません。昼夜を問わず平和のために生きることは容易ではありませんが、ただひたすらその仕事をするとき、私は幸福でした。

 

 人間の歴史を振り返ってみると、最も残忍かつ惨たらしい戦争は、国家間の戦争ではなくて人種間の戦争でした。それも宗教を前面に出した人種間の戦争が最も残酷です。二十世紀最悪の民族紛争といわれるボスニアの内戦では、いわゆる民族浄化の一環でイスラーム信者が虐殺されました。ニューヨークの110回建て世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、二棟を倒壊させた9・11テロも記憶に新しい大惨事です。これらはみな民族間の紛争がもたらした惨憺たる結果です。今もパレスチナガザ地区では、イスラエルが敢行したミサイル攻撃によって数百人が命を失い、人々は寒さと空腹、死の恐怖の中で身震いしています。

 一体何のためにそうまでして互いを憎み、殺しあうのでしょうか。表面的な理由はさまざまでしょうが、その内幕を詳しく調べてみると、間違いなく宗教が関与しています。

     

 宗教戦争が頻繁に起こるのは、多くの政治家が自らの利己的な欲望を満たそうとして、宗教観に潜む反感を利用するからです。政治的な目的を前に、宗教は方向を見失ってよろめき、本来の目的を喪失してしまうのです。

     

 指導者の心が正しくなければ、国と民族は行き場を見失って彷徨うことになるでしょう。悪しき指導者は、自らの腹黒い野心を満たすために宗教と民族を利用します。宗教と民族主義の本質は悪いものではありませんが、それらは世界共同体に貢献してこそ価値があるのです。私の民族、私の宗教だけを絶対視して、他の民族と他の宗教を無視して非難するとすれば、その価値を失ってしまいます。自分の宗教を押し立てて人を踏みにじり、人の宗教を大したことないと見下して、憎悪の火を燃やして紛争を起こすとすれば、そうした行為はすでに善ではないからです。私の民族だけ、私の国だけが正しいと主張することも同様です。

 

 お互いを認め合って生きる...お互いに為に生きながら、共に生きることがまさに宇宙の真理です。この原理を離れれば、必ず滅亡するようになります。今のように民族どうし、宗教どうしが相互に罵り合って争うことが続くとすれば、人類に未来はありません。絶え間のないテロと戦争によって、ある日、吹けば飛ぶ埃のように消滅してしまうでしょう。しかし希望がまったくないわけでははありません。もちろん希望はあるのです。

     

 私はその希望の紐を掴んで放さず、生涯平和を夢見て生きました。私の願いは、世界中を幾重にも囲んできた塀と垣根をきれいさっぱり壊して、一つになる世の中を作ることです。宗教の壁を壊し、人種の垣根を取り払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様が造られた平和な世の中を復元するのです。飢えた人もなく涙を流す人もない世の中ということです。希望のない、愛のない世の中を治療しようとしたら、私たちはもう一度、幼い頃の純粋な心に戻るしかありません。際限のない欲望から離脱して、人類の美しい本性を回復するためには、幼い頃、父の背におぶさって学んだ平和の原理と愛の息遣いを生かすことが必要なのです。

 

ありがとうございました。

 

   *** 神様と人類の希望である平和世界 ***

人類が善になるためには、まず人類を形成している個々人が善にならなければなりません。そのようにならなければ、人類が善になることはできません。結局は、一人一人が善の人となり、一人一人が真の立場に立って、平和の動機となり、あるいは、善の結果の立場に、変わることなく、永遠に立ち続けなければならないのです。そのようにならなければ、いくら平和な世界になることを願ったとしても、この世界が平和になることはできません。

                   【天聖経・第十編・平和とは何か】より

日本的なものを超えて [1]

 🍀「平和を愛する世界人として」文鮮明師・自叙伝と天聖経 🍀

 

 🌹2022年7月8日安倍総理銃撃事件以降、日本中のメディアは民主主義の基本である対話のプロセスを経ることなく、家庭連合(旧統一教会)バッシング報道の一色になっていきました。

 🌹家庭連合イコール「反社、カルト」といった悪のイメージの「世論」を作るため、キープレイヤーとなる知識人、学者、弁護士、有名無名関係なく、一般に影響を与える人たちを総動員して、メディアを中心に雑誌、新聞などフルに活用して、イメージを刷り込ませていきました。この方法は昔からのプロパガンダの手法と同じです。

 

 🌹そんな世の中が騒がしい最中、偶然書棚の奥に眠っていた、💜「世界平和統一家庭連合」の創始者文鮮明師の自叙伝「平和を愛する世界人」を目にした私は、十数年ぶりに読み直してみようと思い立ったのです。

 350ページ近い長文で完読するのに3日ほどかかりましたが、2009年に出版された当時の印象と今ではかなり違っていて、多くのことに気づかされていきました。

 この自叙伝は韓国の人たちのために書かれ、それを日本語に翻訳したものですから、日本人には少し抵抗感があるかもしれません。しかし日本での文鮮明師に対する認識の違い、偏りや誤解が多いことに気が付き、真実の人物像、その思想を少しでもご理解いただければと、僭越ながら乏しい知識と知恵を絞って、自叙伝の内容の紹介を交えながら、拙いブログを作成しました。

 

 🌹私の理解不足のために誤解を招くことがないように細心の注意を払いましたが、このブログの内容に関しましては、私個人の責任において制作したものであることをここに記させていただきます。

 

 🌹私がこのブログを作るキッカケとなったのは、著書の169ページ、文師の世界巡回が始まった1965年、日本に訪れたとき、日本の信徒たちに語った言葉です。

 「皆さんは日本的ですか? そうでないとしたら日本的なものを超えましたか? 神が一番願われるものは日本的なものを超えたものです。日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです」

 このわずか数行の言葉 💜「日本的とは?」 何をどう超えろというのでしょうか? まったく理解できませんでした。

 

 🌹この言葉に引っかかったまま数日経って、何気なくネットで検索していると、Amazonのお勧め著書に、山本七平氏著「空気」の研究・誰もが空気を読み「忖度」する現代を予見した『日本人論の決定版‼」(文春文庫)という表紙を飾る大きな見出しが目に飛び込んできたのです。瞬間、私の指は[すぐ購入]のスイッチに飛んでいました。さらに別の角度から日本人論を書かれたM氏の「空気が支配する国」・・・同調圧力の正体・・・など5冊購入していました。

 このタイトルを見ただけで、今までモヤモヤしていたものが一気に吹き飛んでいったのです。

 🌹今のメディアの家庭連合(旧統一教会)バッシング報道の騒動と、この著書のタイトルが見事にリンクしていったのです。

 

 🌹山本七平氏は1976年一神教の対比をテーマとした日本人とユダヤ人の著書で、第二回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、ご両親は熱心なクリスチャンで、ご本人も洗礼を受けられています。戦争体験もあり、フィリピンでアメリカ軍の捕虜になり、収容所生活を余儀なくされたときのことを、「日本人の捕虜たちは収容所内で集団を作り、腕力のあるものが‘力’で支配する、暴力団のような組織を作ります後で知ったことですが、アメリカの収容所は民主的な自治組織のようで、リーダーは選挙で選ばれています」と述べられています。この体験が山本七平氏の執筆活動に大きな影響を与えたと言われています。

 日本人を知る上で名著といえるものです。是非お読みいただきたい貴重な一冊です。

 

 🌹この著名な方々のお言葉をお借りして自分なりに要約してみました。

《日本人は「村社会」、その気質から生まれる曖昧とした「空気」のような「掟」に従い、同調しないといけない無言の圧力に、そこから副産物として「忖度」という掴みどころのない言葉から「空気を読む」という独自の現象が生じる、それに同調できないものは村八分、場合によってはリンチという制裁が科せられる》といのです。

 こうした因習ともいえる日本人特有の「村社会的気質」文鮮明師は見抜いていたのです。ここで‘日本的’といわれた疑問が一つ解けたようです。

 

 🌹家庭連合(旧統一教会)バッシング報道は、国民の感情を煽り、国家権力まで動かし、何の検証もされないまま、一晩で解散命令を下すという暴挙までに至りました。

 何の罪のない信徒たちは罪人のような扱いを受け、内定が決まっていた就職が取り消されたり、公共施設の使用を禁止されたり、学校や集団でのいじめや差別、無視、排除など、枚挙に暇がないほどの嫌がらせを受けています。

 

 🌹これこそ「村社会」の掟に従わないものに対する村八分の制裁といわずして何というのでしょう宗教は悪 宗教はこうあるべきものだなどと、与えられた問題から最速で答えを出す偏差値教育の盲点ともいわれるような、定められた固定観念に生きる人たちにとって、それ以外の答えは異端、異常などという結論になるのでしょう。

 

 🌹そんな家庭連合(旧統一教会)が批判に晒されているにも関わらず、自らのリスクも受け止めた上で、メディアの報道、政府の解散命令に対する不信、疑惑から、民主主義の根幹に関わる重要な問題として「おかしい!」と手を挙げてくださる弁護士、ジャーナリスト、国会議員、地方の議員、知識人などの出現は、左傾化してく日本、全体主義に移行していく今の現状に警鐘を鳴らしているともいえます。

 

 🌹家庭連合(旧統一教会)批判でメディアに登場する知識人といわれる人たちは、すでに世の中に出回っている情報に、もっともらしく持論を繰り広げていくのに対し、それに疑問を投げかける知識人といわれる人たちは、問題の本質を掘り下げて、深く物事を考える、その対比に「思考の器」の違いをさまざまと見せつけられました。

 

 🌹切り取りによって自由に操作できるマスメディアの報道の情報は、ほんの事実の一部でしかないのです。しかし視聴者はそれが全てのように受け取っていきます。少しでも哲学的な捉え方をし、思考力や創造力を働かせば、自然に疑問が湧いてくると思うのですが、人は自分で考えることを捨ててしまったのでしょうか? 

 

 🌹いや、共産主義が最も恐れているものは、人間の心にある「思想・信条」だといいます。考えさせないように仕向けていくことに力を注いでいるとすれば、連日の過熱報道もうなづけます。当然、宗教は最も危険であり邪悪なものになるのでしょう。

 

 🌹日本には世界に誇る「間」「空」「虚」といった伝統的な精神文化があります。ですから日本人の「空気を読む」という感性を否定するものではありません。しかし、それは空間芸術の美意識を高めるため、創造の技を表現するなど、‘人を生かす’ための目的に使われるものです。目に見えない「空気」はときに「風」によって左右され、使い方を間違えればその弊害は計り知れません。「空気を読む」というのは所詮その場限りのことでしかないのですが、メディアの起こす「風」は、それを追従する人たちの力を得て、暴走してしまうこともあります。人は集団になると暴力的になりやすく、ときに公開のリンチの様相を呈してしまうこともあるのです。

 

 🌹日本には神道、仏教という昔からの宗教があるのに、何故キリスト教を持って来るのかという疑問もあると思います。私はその専門家ではありませんので、詳しいことは言えませんが、一神教と日本人」の対比を書かれた山本七平氏の著書のお言葉をお借りすれば、一神教の神は絶対者、絶対的基準となり、他はすべて相対的なものであると、真の民主主義のベースとなっているもので、判断や選択肢はそれを基準として作られています。これに対して八百万の神々観」は、太陽から月、風、家の中のもの、世の中のすべてのものに神が宿っているという、無数の神々を崇める昔からの風習なのです。何かを決めるとき「村社会」の権力者の「掟」によって決められることが多いのです。

 

 🌹メディアは「空気」を読んで情報発信し、国民はそれが教科書となり、自分の意見として、自ら考えることをしなくなる。政治家は官僚が書いた政策を読むだけの血の通わない言葉を羅列して、国際社会では重要なことは決められず大国に依存してしまう状態で、これから二十一世紀を、次世代に繋げていくために何をベースとして国を築いていくのか、何も示すこともなく、時間とお金をただ浪費しているにしか見えない、今の現状ではないでしょうか。

 

 🌹私はこの文鮮明師の自叙伝の中に、新しい時代を切り拓いていく、何かヒントが隠されていると思えてなりません。

 

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           ☆☆☆ 神様の実在 ☆☆☆

「神様がいる」というとき、それは言葉だけで知ることではありません。主体と対象の関係を中心とする原理から見てみるときに、神様は存在していると言わざる得ない、ということではないのです。神様は「私」が存在する前にいらっしゃったのであり、私が考える前にいらっしゃったのであり、私のすべての感覚、私の一切を主管するお方です。それを認識することが、何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではありません。認識して知るようになっているのです。私たちば、寒いければ、寒いことを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。これと同じように、神様がいらっしゃるとすれば、神様が」いらっしゃることを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題です。言い換えれば、神様の存在を体恤する立場をいかに私たちが確定するかということ、これが問題だというのです。

                 【天聖経・第一章 神様の存在と属性】より